はじめは思っただけだった。ヘリポートのあたりを通過する頃になって、ようやく細部が見えはじめた。風船にしては大きくて、正確で人工的な楕円形のように見えた。ビルの壁には強い風が吹き付けているだろうが、そんなことにはおかまいなしに一定な軌道を描いて上昇を続けている。「F君。F君。あれって何かな」と、まだ平静にぼくは話しかけた。「どれ?」と、F君はぼくの肩越しから下を見た。「F君。カメラ、カメラ」と、大声でぼくは叫んでいた。どうやら風船以外の外観のそれは、もう、ぼくらの目の高さの5メートル程の所にあって、あいかわらず上昇していた。さらんい上昇を続け、どんなに目をこらしても見えない所まで消えてしまった。F君は、その間の数秒という時間をカメラに触れようともしなかった。「F君。今の見たよね」と、ぼくは当然のことに同意を求めるような聞き方をして、F君の方を振り向いた。「いいや、何もぼくは見なかった」と、F君からは意外な答えが返って来た。いつになく大人っぽく、キッパリとした話し方だった。それからというもの、F君と会うこともないぼくだ。それと同時に、証拠の写真と証人もないままなのである。そういう変わった物体が飛ぶのを見るということもない平凡な日々が今日まで過ぎた。ただ時折ふと『あれは、一体何だったんだろう』という思いが、心を横切っては消えることがあるだけだった。