ivataxiの日記

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199X UFO

U F O

一九九X年。それは、横浜にランドマークタワーができたことが、まだ珍しかった頃のこと。その建物は他を圧倒する高さと、一風変わった外観で注目されていたのだと思う。妻と二人で出席した同好会での共通の友人の結婚式場が、たまたまランドマークタワーだったのだ。その男性は、三十代の少し遅い結婚のあと、一男一女を順調にもうけることになる。国際学科だった彼のこと、奥さんが外国の人だということも妙に納得させられた。二次会のあとに残った数人を、彼らはその日のスイートルームに誘った。新婚の部屋に大勢で押しかけるなんて野暮なこと。当時まだ珍しかった建物のスイートルームでなかったら誰しも辞退したところだろう。素直に我々は好奇な目をしてその部屋に足を踏み入れた。様々な学部が集まるその同好会は、部屋もなく階段下の物置き場だった。ベンチと折り畳み机があるだけの空間であった。互いに違う学科だったぼくと妻も初めてそこで出会ったのだ。今はその部屋は存在しない。ごく自然に、出会うはずのない様々な人同志が出会えたかけがえのない場所であった。スイートルームに集まったこの連中も、様々な学科で学んだ過程を持っていた。それを生かした職につき、高い収入を得る人もあり、全く違う職につく者もあるし奥さんに納まった人もいた。「F君。ここって高いね」と、ぼくが呼びかけたF君は、都内大手建築会社に勤めていた。学科での勉強がそのまま仕事に活かせた方のケースである。「ほんとだね。このあたりじゃ一番だよ」とF君は答えた。彼は時折り不意に声が裏返る。ヨーデルのように裏返ったり戻ったりを繰り返すのだった。女性的な口調と高いトーンで、都会の男性にありがちな中性的な話し方をする。いかつい風貌をしているので、黙ってさえいれば仕事ができそうに見えた。「F君、そのカメラって高い?」と、さりげなくベッドにころがしてある白い一眼レフを見て聞くと、そうでもないよという風に、カメラを粗末に扱って見せた。「もしここにUFOが飛んで来たら、そのカメラで撮ってよね!」と、軽い気持ちでぼくが聞く。「いいよ」と、快くF君はヨーデルで返事をしてくれた。ホテルのはめ殺しの一枚ガラスの窓は、非日常的な大きさで、きっと十分にぶ厚いのだろう。大丈夫だとは思っていても、顔を近づけて下を見ると、心の底にある動物的な怖れが顔を出す。隣りのビルだって決して低くはないはずだと思う。でも、その屋上ヘリポートでさえ低くて遠くに見下ろせた。大きく◯で囲まれたHの文字がヘリの着地点のようだ。その日は少し寒かった。雨も降っていて、霧かモヤのようなガスが下の視界を所々見えなくしていた。わずかに視界の晴れている所では、雨に濡れてしっとりと、くっきりと見える暗い色の精密部品のような街を現わしている。人や車が街路を血液のように流れている。道を歩いている人が、わざわざ傘をたたんでまで空を見上げたりはしないと思われる日だった。スイートルームの見物にも飽きたのか、他の連中はそれぞれのお気に入りの場所に腰をおろし、新婦さんの出してくれる飲み物を飲みながら、何か話しているようであった。まだぼくは、飽きることなく窓から見える映像をぼんやり目に焼き付けていた。突然、退屈な景色の中にオレンジ色をした風船のようにも見える丸い物を見つけた。たいした意識もなく、ただ目でそれを追っていた。『誰がこんな雨の日に風船を飛ばしたりしたんだろう』と、

はじめは思っただけだった。ヘリポートのあたりを通過する頃になって、ようやく細部が見えはじめた。風船にしては大きくて、正確で人工的な楕円形のように見えた。ビルの壁には強い風が吹き付けているだろうが、そんなことにはおかまいなしに一定な軌道を描いて上昇を続けている。「F君。F君。あれって何かな」と、まだ平静にぼくは話しかけた。「どれ?」と、F君はぼくの肩越しから下を見た。「F君。カメラ、カメラ」と、大声でぼくは叫んでいた。どうやら風船以外の外観のそれは、もう、ぼくらの目の高さの5メートル程の所にあって、あいかわらず上昇していた。さらんい上昇を続け、どんなに目をこらしても見えない所まで消えてしまった。F君は、その間の数秒という時間をカメラに触れようともしなかった。「F君。今の見たよね」と、ぼくは当然のことに同意を求めるような聞き方をして、F君の方を振り向いた。「いいや、何もぼくは見なかった」と、F君からは意外な答えが返って来た。いつになく大人っぽく、キッパリとした話し方だった。それからというもの、F君と会うこともないぼくだ。それと同時に、証拠の写真と証人もないままなのである。そういう変わった物体が飛ぶのを見るということもない平凡な日々が今日まで過ぎた。ただ時折ふと『あれは、一体何だったんだろう』という思いが、心を横切っては消えることがあるだけだった。