ivataxiの日記

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レットイットビーが聞こえる

レットイットビーが聞こえる

 

ぼくはタクシーの運転手をしている。売上の自慢はできないのだが、マジメに勤務して来た。だが、年末のある朝、JRの駅で待機中急に首の後ろに痛みを感じた。活字で「痛み」と書けばすべて同じ痛みのように感じるかもしれないが、言葉で違いを言い表すことはできない。首がガックリと無力に垂れ下がってしまうので、とても運転を続行できない。「ハナバン」(順番の一番先頭のこと。ハナは韓国語で先頭のような意味があると聞く。番は番号の日本語で、二つの言語を混ぜて作った言葉なのだろう)だったのだが、早退することにした。早退というのも初めてのことでどんな手続きをするのか良くわからない。無線基地に行きいわれるままに書類に書く。歩いて20分程の距離を通っているのだが、その距離も歩ける自信がなかった。外に運転手が二人いたので「お金は払うから送ってくれ」というが、二人とも無視した。「シカト」という奴で、嫌いな人間に対する表現の一種らしい。一刻も早く歩いて戻らねば、途中でどうなるのか自信がなかった。首を真っ直ぐに保てないので、うなだれて下から見上げるように前を見て自宅まで戻った。たぶんまっすぐは歩けないので足跡が蛇行していただろう。知人に会わなかったのがせめてもの幸運だ。日常の挨拶などしたくない。

 

家では、ぼくは「マスオさん」である。妻の実家に住んでいる。妻の母親が世帯主である。仕事の途中戻ると「負け犬」を見る目で迎えられた。もう、一刻も早く床につきたかった。二階の寝室で横になる。妻は商店をやっていて、遅く戻った。「頭が痛い」というと「風邪薬を飲みな」という。風邪だと思っているらしいが、ぼくも「そうかな?」と、自信がなかった。食事を食べながらも、時折、床に倒れながら痛みと戦いながら食べていた。タクシーは「風邪」ということで休んだが、病院の診断書がいるというので近くの総合病院に歩いて行く。体温計を見て「熱がないので何でもないでしょう。診断書は書きますが有料ですよ」と、いわれた。でも、この頭の痛みは風邪とも違う気がした。まだ運転できる自信がなかったので、少し離れた総合病院の内科を受診したが、そこも体温を計っただけだった。「もしかすると髄膜炎だったのかも?」と、そんな診断書を有料で書いてくれた。背中も痛いのでついでに、整形外科で見てもらった。「風邪ならば節々も痛みます」というだけで帰された。病院が休診の年末からお正月にかけては、ひたすら家で寝ていた。横にもうつむきにもなれず、ひたすら枕を外して上を向いて寝ていた。ずっと同じ姿勢で寝ていると、猫がお腹の上で寝る。お腹の膨らみと柔らかさが気持ち良いのだろうか。猫は重いが、慰めにもなった。お風呂にも入らない、いや、入れないので、髪は前髪が怒髪天を突いた形に地肌の油のグリースで固めたみたいで、知らない人は「ロックやってるの?」と、思っただろうか。いや、後頭部はつぶれきっていたから、やはり病人に見えただろう。

 

年が明け、1月4日が最初の診療日である。病人の待ちわびた日なので、病院は混雑しているはずである。もう車の運転は無理なので痛みをこらえて電車で近くまで行き、あとは歩いた。頭痛も首の痛みも、既にバスの揺れには耐えられそうもなかった。前回、内科と整形で受診していたその新しい総合病院は、内科も整形もかなり混雑していてとても診てくれそうもなかった。それで気が退けるが仕方なく脳外科を受診したのだ。脳外科の先生に、これまでの痛みの経緯を話したところ「その痛みは心配だから一応、CTしておきましょう」ということになった。これまでには、体重があるのに長距離を走って、ひざの変形が起き、MRを受けたことはあったが、「脳」のCTというのは生まれて初めてのことであるし「自分の人生ではCTなんて無関係だ」と、それまでは考えていたのだ。MRはひざでさえ「ガンガン」と、骨に響く音がうるさかったから「脳なんてもっとうるさいんだろうな」と漠然とその時思った。CTは「ヒュオーン」というような、シンセザイザーで作ったような宇宙的な音がする機械だ。大きめなカプセルホテルのベッドみたいな所に寝るだけで痛みはない。「人工的に放射線を作り出し、人体に照射する」らしいのだが、自分と放射線の関係というものも理解できなかった。ともかく、痛くはないのに、脳の内部が見れるということらしい。知らずに脳をスライスされた気分だ。CTスキャンの後、脳外科の前ではかなり長く待った。体調が次第に悪くなり、待ち合い前のベンチでは既に座れなくなっていた。周囲の目は気にはなったが、横になって待った。持っていた待合の番号が、やっと部屋の前の電光掲示板に表示された時の喜び。看護婦さんに中に通された。若い、近くの医大より派遣された脳外科の医師は、四角く張った堅牢なあごを持ち、知的な眼鏡越しの冷たい視線には、医師の自信を感じた。「CTの結果、最近、くも膜下出血があった疑いがあります。その形跡は残っているのですが、綺麗になりつつあって、今となっては想像するしかありませんが。くも膜下出血というのは、一回目の血管の破裂で命をとりとめても、実は、二回目の血管の破裂の方が怖いんですよ。二つ目の爆弾が破裂する前に、緊急入院を必要とします」という。耳で聞いてはいるのだが、どうも医師の語る内容と自分自身の症状との関係や、距離感ということが理解できないままである。医師はパクパクと口を動かす水槽の中の魚のようにも見える。言葉はまるでヒトゴトのように空々しく聞こえた。「今この病院では、くも膜下出血の手術ができないので、ぼくの出向先の医大へ移送します」という。とても急を要する面持ちで、看護婦さんに救急車の手配を指示していたのを聞いた。何かの冗談かとも思ったが、誰も笑ってはいなかった。「家族には連絡できますか」ともいうので、ストレッチャーで移動中、寝た状態で携帯のメールで妻に連絡をした。だが、返事はなかなか帰って来なかった。「では、こちらから家族の方に電話してみます」と、病院の事務の人がいうので、家への連絡はまかせることにした。さっき医師は「救急車を用意」と看護婦さんに指示しているのを聞いていたのだが、実際は一般乗用車に変更されていた。それは単なる白い営業車みたいなワンボックスだったのだ。そこに、ストレッチャーで乗せられたらしい。そんなこととは知らず「ぼくは救急車に乗るのなんて始めてなんです」と、付き添いの事務員さんに他愛もなくいうと「これは救急車ではありません。サイレンも鳴らしていないし、渋滞にもつかまるでしょう」といわれ、初めてそれが救急車でなかったことを知ったのだ。「そういえば救急車にしては妙にモタモタしていたし、事務室でしばらく待たされて車になかなか乗せてもらえなかった」ことを思い出した。恐らく「新しくできたこの地域では有名なはずの総合病院から救急車が出て、別の病院に向かう」というのは、ある意味「恥じ」なのかも知れない。だがそんな「病院同士の対面」のために、これまでも多くの命が失われていたかも知れないと知り、憤りを感じた。

 

最初の総合病院から、普通車のワンボックスカーで転院して来た時、その医大の入り口あたりで一人置き去りにされてしまった。「救急車だって聞いていたから、救急窓口の方でホットライン(救急車から直接連絡の入る電話)を握り締めて待機していたのに、こんなただの搬入口に普通車で入るなんて」と、当直の担当医師は、無表情ながらも内面から怒りを表出しているようだった。「準備をしてこなくっちゃ」と、その医師はどこかに走りさった。ぼくを運んだワンボックスの運転手の男性と事務員さんは、その病院のストレッチャーにぼくを移すと、もと来た病院に戻って行った。救急窓口でもなんでもない場所に、ぼくはストレッチャーに横たわったまま一人で取り残されてしまった。子供のように心細かった。ぼくはただ寝ていることしかできない。眠いという状態に近い感じだった。ぼくの肉体からは、もう一人のぼくと同じ形の物がぽっかり浮き出てしまった。ユラユラと、その空間の天井近くに浮かんで漂っていた。目線が高く不安定である。きっとこういうのを「幽体離脱」というのだろう。だが、そんなことに驚いている暇はなかった。そこには、すでにもう一体別の「霊」が浮いていた。その「先客」の肉体は、どうやら近くに見当たらないから、ぼくの場合とはまた事情がちがうみたいだ。いわゆる「幽霊」という奴らしい。その「もう一体」というのは、海軍か鉄道みたいな腕章のついた制服を着ている。「ぼくの浮き出たあとの肉体」に、その霊は自分の生前の残留思念を送りつけているようだ。肉体としてのぼくの脳は、その海軍の霊にしばし支配されて、彼の過去の経験を夢として記憶したようである。そこへ誰か人がやって来て、ストレッチャーを押してどこかへぼくの肉体を運んで行くようであった。肉体が移動しても、海軍の霊はしばらくついて来た。幽体離脱から肉体へぼくが戻ると、その海軍の霊は、もう見えなくなっていた。残念ながら彼には肉体が無く、そこがとても気に入っているみたいだった。そういうのを「地縛霊」というのだろうか。

 

結局「検査入院」という形で、しばらく様子を見ると、宿直の担当医師から告げられた。ストレッチャーを押しているのが「脳外科の医師と研修医」なので、どの部屋にもフリーパスで入ることができた。こんなに早く「眼科」「CT」「MR」「整形外科」「脳外科」「レントゲン」などの部屋を移動できるなんて、思いもよらない。小学生1年の時に「左股関節の手術」をしたことがあり、もしもその時、金属を埋め込んでいた場合は、MRはできないので、先にレントゲンを取って確認した。「確かに、自分の骨の移植手術ですね。これならMRはできます」と、研修医は嬉しそうに話す。CTもMRもアンケートみたいな紙に何かを書かされた。万一何か異常があった時のための「念書」のようで、これがないと、CTもMRもできないようであった。眼科でも「確かに緑内障ですが、緊急ではないです」と、いとも簡単に診断された。脳のMRなんて、きっとうるさいに違いないと思っていた。耳栓もあまり役には立たないのだが、それは何か電子音楽の演奏を聞くみたいな感じだった。好きでもないが、嫌いでもなかった。途中で、血管に造影剤を入れる。胸が熱くなって不安になった。後でコンピューターの画面で、CTとMRの画像を合体させて、立体的に動かしてみたり、切断面を見せてくれたりした。担当医師の説明は説得力があり「万一、手術の場合はこの人にお願いしたい」と思えたのだが、数日先にはそれが本当のことになった。

脳外科の大部屋は、出入りが忙しい。わずか一週間の検査入院の間に、5人部屋に何人の人が出入りしただろう。本当は6人部屋なのだが、設計上部屋の片隅にベッドが置けなかった。ぼくは窓のある側の真ん中だった。頭が痛いので枕を外しひたすら上を向いて寝ていたから、見るというより人の話を聞くか、気配を感じるだけだった。元気な人はすぐに退院したし、逆に手に負えない患者さんは他の専門病院に転送される。手術の後良くなった人も、これ以上良くならない患者も、退院か転院を余儀なくされた。まるで戦場の医師のテントの中にいるような気分だ。中には話をすることもできない人や、相手の話を理解できない人もいた。いや、呼吸さえままならない人もいる。生きていることが良いことなのかどうなのかわからなくなる。でもやはり死にたくはないからここにいるのだった。

ある市役所の管理者らしい人は、セレモニーの途中、転倒して頭を打ったのでここに来ていた。だが、本当は心臓の方が深刻だと彼はわかっていた。気位が高く、あまり隣同士でも話をしなかったのだが、退院の時に「これ、良かったら読むかい」と、週刊誌をたくさん置いて行ってくれた。途端に好きになった。彼は、良くなり出してからは散歩に行くことが多かった。声の通る背の高いスタイルの良い看護婦さんには弱く、彼女のいうことだけは何でも聞いた。その彼女は確かに何かを持っている気がした。「俺はここを退院したら、役所は辞める。趣味に生きるよ」と、いう。お金は問題なくたくさんあるようで、人生をここで考えたようだ。

大きな工場の設計の人は、向いのベッドだ。他県から救急車で運ばれて来た割に、病室では自由に歩き話ていた。何の病気かわからない。ある日、スキンヘッドにして戻って来た。単なる検査というのに物々しい。脳の中の細胞を取るには、木枠で固定する必要があり、麻酔無しでは気絶する痛みなのだという。その検査はここの病院が向いているらしい。彼は癌細胞を発見されて、すぐに別の専門病院に転送された。「ぼくは、会社の設計部門を立ち上げました。最初は手書きで設計図を描いていました。コンピューターを導入したのもぼくです。でもきっと、すぐに僕がいたことなんて、みんな忘れてしまうだろうな」と、今まで話もあまりしなかったのに、転院間際には長く話をしていた。

病院の消灯は早い。そして有無を言わせない断固とした物だった。どの道、寝る以外できないので同じだが、色んな音が聞こえる。いびき・歯軋り・話し声・ラジオ・音楽・テレビ・DVD・ナースコールなどは静かな方だ。異常行動の患者の叫び・看護婦の声は、滅多には聞けない。みんなが寝静まった時、ナースコールを待ちきれなかったのか、立ち上がろうとして転倒したのか、頭を床に打ち付ける鈍い音も何度か聞いた。自分でトイレに行ける人の足音・痰の吸引音・看護婦さんの回診の会話も深夜問わずだ。結局、眠れず昼間に眠ることになるのだが。

「結局今回の検査では、くも膜下出血の元になる動脈瘤は見つかりませんでしたが」」と、担当医師は物足りない表情でいう。「では、ぼくはタクシー運転手で収入もないですから、無駄に入院を続ける訳にもいかないので退院します」といって、すぐ退院してしまった。

病院から家に戻っても相変わらず、何かが解決した訳ではなかった。頭も目も首も痛いままだったのだ。娘は神奈川に住み、東京の私立大学へ通っていたのだが、たまたまこの時、彼女の「成人式」があり、一旦家に戻っていた。検査入院で過ごした病院にも、何度か顔を見せたが、むしろ本人の成人式の方が大変なようだった。家にいても調子が悪く「入院させて欲しい」と、思ってはいたが、お金がないのでなかなか口にはできなかった。娘の成人式が無事に終わり、写真を見せてもらった。「やはり娘が一番かわいいね」というと「そういうのを親馬鹿っていうのよ」と、娘にいわれた。成人式が終わり彼女は神奈川に戻って行った。それで少し安心し、体調の悪さに限界も感じていたので、ついに妻に「病院に連れて行って欲しいのだが」といった。

 

検査入院中は、様々な検査もスムーズだったのに、一旦退院するとすごく待たされる。脳外科の待合の最中、またしてもベンチに横になってしまった。気持ち悪くなってトイレで吐いてしまった。「トイレで吐いた」ということを聞いて、担当の脳外科医師の顔色が急に厳しくなった。「そこまで行っているなら、すぐに入院してくださいよ。今度は、こちらのいうことを聞いてもらいますからね」と、いわれ「はい。今度はしっかり治してください」と、素直にお願いしたのだった。またしても入院してしまったが、病室の空きがないみたいだった。本来の「脳外科」の病室が一杯で「耳鼻咽喉科」「整形外科」「眼科」など、同じフロアの病室を転々として過ごしていた。部屋を転々とするうちに、容態が次第に悪くなっていったようで、途中からはっきりとした記憶がないのだ。意識の無くなってからがどんな風だったのかは、他の人の記憶を後でつなぎ合わせて自分なりに想像するしかなかった。ここから先は「夢」ととらえてもらってもいい。でも、自分にとっては「実体験」のような記憶なのである。一体、何が自分に起きてしまったのかもわからないが、覚えていることを単に記すことにする。

 

 

 

夢または、臨死体験および、輪廻転生の過去をめぐる魂の旅?

くらげ

ここは海辺。暖かい波打ち際である。波が寄せては返して行く。いつまでも、いつまでも。そこには、波に打ち上げられ取り残されてしまった「くらげ」が一匹いる。そのくらげは、次第に遠のいてゆく波を、恨めしく感じていた。陸の上にあっては、自分の力だけでは、この重い体も頭も、びくとも動かせないようなのだった。海の流れに任せてならば、ゆらゆらと泳ぎの真似事はできたものを。波が引いてしまうと、砂地でさえも次第に水分を蒸発させて行くようなのだ。丸っこく水分を含んで大きく見えたくらげだったが、いつしかしぼんでしまった。だが、まだ死んではいない。「次の波が来るまでは、もたないだろうな?きっと」と、くらげは自問していた。やがて夜になった。暗い鏡のような波打ち際には、月明かりが美しく輝いている。気ままに夜光虫も光っている。もう、そこまではたどりつけない。すでに、くらげの形はしていても、水分は抜け、残骸のようだ。「明日の朝までは無理かな」と思う。ゆっくりと大きく丸い月が空を動いた。反対側の空の下端をオレンジ色に染め太陽が昇ってくる。くらげは朝を待ち切れなかった。オレンジ色に輝く早朝の砂浜に、長いくらげのコバルトブルーの影が伸びていた。

 

クジラ

ゆっくりと飛ぶ鳥の背中に捕まって、空から見下ろすとわかるのだろうが、陸からではおそらくわからないだろう。陸から見ると単に、川に生い茂った葦が群生しているだけのようにしか見えない。それは海くらいもある広い川のようにしか思えないだろう。もしも、空から見下ろすことができたなら、そこに「クジラ」の姿を見ることができるはずだ。だが近寄っても、実際そこには何もない。ある種特殊能力のある人たちには、その声も聞こえるし、姿も見えるようなのだが。「姿が見える」といっても、正確には「生前の残像」というべきなのかも知れない。それは、この川にこんなにも葦が群生しなかった以前のことである。ここまで、海から小さなクジラたちが上って来ていたようなのだった。蛇行した川は、この辺りが特に流れの緩やかで広い場所であったようだ。大昔、クジラはカバのような哺乳類の先祖から進化したという・・。人間などとも、まったくの無関係ではないし、海に生きているからといって、ましてや「魚」の一種でもない。その頃のクジラたちは、広いこの川の端から端を、ターンしてスピードを競ったり、水遊びもしていたようである。そんなに遠く無い過去。人間たちの登場で、多くのクジラの仲間は殺された。次第に川に残る者も減り、身を隠すようにしていたわずかな仲間たちも、気温や水温の上昇と共に、水質が変わり、良くないバクテリアなどの増殖に関係して、おおむねいなくなってしまったようなのだった。種の危機に直面して、ある者は海に戻り、またある者はここで屍となった。大量に屍となったクジラたちの念がここに今も残り、上空から見た時に、クジラの形に見えたようなのである。

 

カニ

水槽の中には、人間たちから見れば「活きの良い魚たち」が泳いでいる。ここは「いけす」という、水槽である。「魚をその場で料理するのを見せて食べさせる」という趣向の店内の一角なのである。そのいけすの端には、透明ですべすべした平たい容器に入れて「無造作に半分つっこまれたようになっているカニ」が一匹売れ残っていた。そのカニは妙に頭が大きく、甲羅が盛り上がった形であった。タラバガニなどとは違い、ハサミ以外の手足は小さい。どうやら、長い手足をもいで食べるカニなどとは種類が違うようであった。妙に頭が大きいその姿は、見るからに考え深げにも思えるのである。その外観はまるで「帽子をかぶった不機嫌な老人」のようにも見える。このカニは売れ残ってはいるが、もしも注文があれば板場の二人がいつでも料理をする算段である。「ちらっ」と、時折、板さんと目が合うことがあった。「このカニめ。待ってろ、すぐに料理してやっかんなぁ」という、ぎらついて残忍な目でこちらを伺っているのである。いけすの中のひまそうな魚たちも、下からこの透明な平たい容器を時折つっつくのである。魚の鼻面が当たると、大きく揺れて身の危険を感じる。そんな時には「ふん。お前らの方が先だ」と、いってやる。たぶんそれは当たっているのだろうが。カニがたった一匹しか残っていないのに食べようなんて、命知らずな客だともいえる。いけすの魚たちの心配よりも、この透明容器はだんだん傾いて来ている。中に入っている水も、腐ったようなおかしな匂いになって来た。おそらく店の室温で、水がぬるみカニが生息できる限界を超してしまっているようだ。「板さん!こっちを見るヒマがあるなら、水を替えてよ」と思う。「だんだん斜めにかしいで、水に浸かっちゃう・・ぶくぶく・・」カニは、変色し匂いを放った水にすっかり落ちて行った。

 

貝と足跡

船着き場に舟をつないだような感じに、人知れず貝殻が一つ、海辺に流れついていた。途中は消えて見えないる部分もあるのだが、貝殻からは、小さな足跡がどこまでも続いていた。その足跡は良く見ると、小さいけれど人の足跡の形を留めていた。湿って柔らかい海の砂地には残る足跡だったが、陸地の硬い地面の所まで来ると足跡は消えてしまったみたいだった。

 

丘の上の亡骸(むくろ)

「のう。この世だけではなかろう?」何となく、ワシはそうつぶやいてみた。夜の霧だ。この山の坂の途中のあばら家に、ワシは年老いた母者と二人住まいだ。今のワシは、嫁をもらうつもりもないし、ワシと年老いた母者の元に嫁ぐ女もいないだろう。母者もすっかり老け込んで、最近は、いうことも少しおかしいとも思えることがある。だが、人里離れた山の一軒家のこと、多少のことはいうまいと思う。夜、坂の小道は垂れ込める重い霧で足元が見えない。夜、ここを歩いて登る物好きもいないだろうとワシは思う。母者は、この辺りの道を、幼い頃から知り尽くしているから安心している。だから、坂の切り立った辺りに老いた母者が何か遠くを見るように立っているのを見ても驚かなかったのだ。母者の方を見ずに「のう。この世だけではないのだろう?」と、闇に向かってそう叫んでみた。誰にいうでもないのに、必要以上に大きな声を出してしまい、我ながら驚いた。だが、里から離れた一軒家のこと、何をためらうこともない、そのはずだった。母者の返事を待ったが、しばらく母者のいた辺りに返事は聞こえてこなかった。霧も出ていたが、そこそこ明るい月も出ていた。誰も来ない、この山の切り立った斜面に続く、細い坂道の途中にある一軒家に住む、ワシと年老いた母者だけを月明かりが照らしている・・と、そう思っていた。母者のいた辺りに目を振って見る。と、そこには斜面に流れ落ちる地面をはう霧が見えるだけだった。「まさか、この辺りで生まれ育った母者のこと・・まさか・・まさか、足を滑らせて落ちることはなかろう」そう思えた。いや、そう思う方が自分が楽になれる気がしたのだろうか?母者の見えなくなった、坂の上の霧の流れ落ちる辺りの空虚に向かって「のう。この世だけではないのだろう?」と、ワシは再び大きな声をかけてみた。

 

二人の姫

俺は二刃流の浪人者だ。この辺りでは、ちょっとは名も知れているはずだ。この山の細い斜面を、身なりの良い旅支度の二人の姫が、足元も及ばない足取りで登って来るのが見える。その後ろを、二人の若侍が抜き身をぎらつかせて追っているのが見える。入り鉄砲に出女という奴だろうか。大方、その取り締まりという所だろう。何も「たかが若い女二人のために、刃をぶら下げた大の男二人が追うこともなかろうに」とも見えたが、通りすがりの浪人者の俺などには関係のないことだと見ている。やがて、その女たちは、俺の後ろに隠れるようにして、俺を盾にした。一人の女が俺の左の袂に強くすがりついていた。さらにその後ろに隠れるように、もう一人の少し若い姫が、手前の女に寄り添うようにして隠れている。二人の姫たちは、その首から下しか見て取れない。結局、名前も顔もわからず仕舞いである。ようやくきつい坂を登って若侍の一人が抜き身を振りかざした。その時、一旦は、残る右の刃を抜いて、相手の刃を止めた。しかし、女に左手を強く掴まれて、俺の「二刃流」は封じられてしまった。ついに、二の太刃は覚えがない。恐らくは、二人目の若侍の振り下ろした抜き身に、俺は絶命した。振り返って考える程の人生でもなかったが「何故、俺なんかをこの二人の姫は頼ったのだろうか」というのが気にかかる。「できれば、もう一度生まれ変わって、この二人の女たちに聞いてみたかった」というのが、思い残す気持ちだ。それを世間では「残念」というのだろう。俺が絶命したすぐ後には、二人の女はやすやすと二人の若侍に捕まっただろう。いや、そんなことはあるまい。どちらかの若侍が、どちらかの女に手を触れる前に、短刃でのどをかき切ったのではないだろうか?おそらく、いや、それはきっと間違いなかろう。もし再び「この世」という奴に生まれ来ることがあったなら、この二人の姫に再び会いたいものだ。そして「どうしてあの時、俺を頼って絶命したのか?」と、聞いてみたい。その時は既に「刃の力」の及ばない世の中になっているのかも知れなだが。

 

山の集会

俺は「ある集会がある」と聞いたから、そこに向かっていた。それだけは覚えているのだが、詳細はわからないという場所だ。半分は農地で、田畑が広がる平地であり、もう半分が切り立った山を背負う山の小道が坂に続く、そんな地形だった。山を登り切れば、平原の大地へとつながっているのだが、この山手の坂を登ってまで日々往来するという物好きは少ないだろう。江戸時代までは、どうしてもの必要があり、隠密に平原大地から西の都へ落ちる・・という人がいただろう。それ以外は、あまり人気もないし、山賊や追手の武士たちの手に命を落とすのは目に見えていたから、物好きに夜道を歩いて坂を登る物というのも、まずいなかったのではないか。俺は、その長い坂を歩いて降りて行った。その坂道は小石が多く荒れていて、日ごろから人通りが少なそうに思えた。つい「バイクがいるな」と、独り言をいった。そんな所である。集会の会場は、障子を取り払い、急場の広間が出現した古い日本造りの民家のように見える家である。それにしても広間の大きさは、無駄とさえ思える広さである。早く着き過ぎたのだろうか、まだ俺一人だった。「段々と人も集まるのだろう」と、理由の無い言い訳を自分にした。一眠りして、少し目蓋を開けて見ると、少しは人陰も増えているようだった。「深夜に近いというのに、こんな足元の悪い場所に集まる人たちがいるのだろうか」という一抹の不安のような疑問が、一瞬、頭をよぎったが、さらに眠気の方が強く、目蓋を再び強く閉じてしまった。深夜だというのに、台所あたりから、男女の小競り合いの声がする。はたしてそれは「夫婦の間の金の話し」なのだろうか。話の中身までは聞こえない。閉じようとする目蓋の端に見えたその男女は、不思議なことに「江戸時代の商人夫婦」のようにも見えたのだが、またしても睡魔に負けて眠りに落ちてしまった。「あの格好は時代錯誤なんじゃないか」と、眠ろうとする自分とは別な自分が、どこか冷めた感じの気持ちで違和感を感じながら、結局は眠気に負けてしまった。目覚めると辺りは人で満席であった。深夜に集まったのだろうか。まだ、夜はしっかりとは明けておらず、室内の明かりは弱い松明かロウソクのような古風な物である。いつしか末席に押しやられていた。近くの男達の姿は、なぜだか若く見えた。だがその中でも、俺が一番若いということなのだろうか。一番部屋の前列には、若いが「裃」を付けた男が、神妙な面もちで「かしこみかしこみ申す」と、言い終わる所だった。これから何かが始まろうとしているらしい。裃の男が深くゆっくり長い間頭を畳に付けたままにしていると、最前列から順番に、やがて一番後ろの俺の所まで、ドミノ倒しか、寄せる波みたいに頭を畳に付ける動作が伝染して行った。何しろ、何が起きているのかもわからない。考えたら、何も聞いていないような気もする。隣の同世代らしい男の子に、ふざけて「こんな不便な所じゃ、バイクがいるよね?」と、当たり前のことを聞くみたいに同意を求め、ちょっと笑いかけてみたが、意外にもその同世代の男の子は「何のことをいっているのか訳がわからない」という怪訝な顔を小さく表情の中に見せたが、すぐに儀式に従うように前に顔を向け直した。皆が頭を下げているので、視界が幾分良くなった。体を起こして前を見ると、一人の男か女かわからない体つきの男が立っていた。美しいが、ツルリとした顔だけでなく、少年特有の中性的な体全身に、入れ墨のようにも見える「薄墨」で、何か模様を描いてあったが、この儀式の感じからすれば「本物の入れ墨」の可能性もあった。この細身でオカマみたいな男は、高い声で呪いか呪文のような言葉を発しながら、和室の一番前の明かり採りの半地下に見える部分の、自然石を積んだ壁をぴょんぴょんと跳ねて登って行った。部屋がすべて見渡せる高さには「猿の腰掛け」みたいな形に飛び出した大き目の岩があり、その踊り場のような場所で、また踊りだした。そのおかしな風ぼう・呪文・そしてオカマ踊り。様子が変だと思うのは俺一人なのだろうか?誰一人、そのオカマ踊りを制するでもなく、逆に広間を駆け抜けるその呪文のオカマ踊りを、真似するみたいに前から順番について、山の夜明けの坂道に走り出したのだった。俺は一人そこに残った。

召還

この日、天上界では「魔」といわず「神」といわず「たった一つの魂を召還させる」というだけのために、まるで祭りのような騒ぎであった。「魂を人の体に入れるというだけ」ならば、自然のことである。だが、「魔」や「神」の神通力を持ったまま、人の体に宿らしめる「召還」という儀式となるとまるで話が違う。そんな話は、とんと聞いた試しがなかい。ある「魔」はいう。「誰も俺に命令するな。だが今、俺は自分の楽しみだけのためにここに来ている」と。そして、ある「神」はいう。「良いとか悪いとかいうのではない。天界にいて、こんなにも楽しいできごとがあろうか」と。「魔」や「神」が共に集うということは、「魔界」「天界」の永きに在りて、まずありえないことである。それが、こんなにもたくさん、しかも誰かの招集もなしに自然に集まることなどない。ともかく「その一つの魂」が「魔」と「神」たちの見守る中で、人間界に送り出されたのだ。だがその儀式の後は、また、何もなかったように、「魔」は地の底に「神」は天界へと戻って行き、静寂が宇宙に「凛」と響いて行った。

こころ無い人々

あまりにも肉体が苦痛を感じる状況の時には「魂」が、その肉体から抜け出しているということもあるようなのだ。一言で簡単にいえば「幽体離脱」という状況だろう。そんな時いつも通りに肉体に話し掛けても、もちろん返事はない。魂が別の場所を彷徨っている時の、残された肉体はいわば「ヌケガラ」のようになっているのである。話しかけても「返事が無い」とか「目がうつろ」だったとしても悪気はないから悪く思わないで欲しい。事情があって魂も肉体を離れているのだから。ぼくの肉体を離れた「魂」だけの存在は、この世にもある「魂の集まる場所」にいた。まるで「魂の会員制クラブ」みたいな場所である。その病院にもそんな場所があり、肉体からつながる「魂の尾」に負担の少ない距離らしいのだ。だから、何かあれば、いつだって肉体に戻ることができた。ただし、やはり肉体に戻っても「痛くてしんどい状況」が続いていれば、瞬時に魂たちの集う場所に戻る。その一瞬にたまたま出会った人は「今、ちょっと目が開いたよ」などと、誰かにいうかも知れない。地上で肉体は生きているというのに「魂だけの場所」に集まっている人はどんな人たちなのだろうか?気になったので、聞いてみた。「忙しいという字は『心がない』と書く」と、その魂はいう。どうやら、肉体はとても忙しく今も働いているのだが、心だけは失われているみたいなのだった。別の魂にも聞いてみた。すると「私の肉体は公務員なのだ。なまじっかの心や魂は邪魔だからここに置いて体は公務に勤めているのだよ」という。たまたま、お隣のベッドが上級公務員の方である。少し関係がありそうだ。これは単に「夢を見ているだけ」のことなのかも知れないのだが良くわからない。

 

蘇生

結局、意識が戻ったのは、手術の翌日の夕方だった。だから、手術の翌日の昼過ぎまでは、まだ、肉体を抜け出て、魂はその近くをふらふらしていた。「このままでも良いかな?」というような、楽で安易な気持ちでいた。肉体が目をつぶっても、目が見えていた。ただ、実際の肉体よりも高かったり、低かったり、動き回るカメラみたいにアングルが安定しなかった。視界はひどく広かった。手術の翌日の夕方、妻がお見舞いに来てくれたのだ。肉体の目を開けた時、たまたま「なんだかどこかで会ったみたいな顔」を見つけた。良く見ると「自分の奥さん」のような気もする。「ミタコトアルヒトダ」と、ぼんやりした頭で考えた。すると、魂は肉体と一瞬でつながって行ったのだ。「これって。現実。なの?」と、ようやく言葉を絞り出した。「そうだよ、これが、現実だよ!」と、妻は小さい子に諭すみたいな口振りだった。妻は、ぼくのピントのずれた、おかしな質問にも、真面目に目を見つめて答えてくれた。頭を左右に振って見ると、頭の両側を手術したのか、そのあたりに鈍い痛みを感じていた。見えないものの、左右にそこから血の色をした「透明で血を抜くための平たい管」が取り付けられていた。頭を一番衝撃から保護し、冷やし、低く保つためなのか「氷り枕」が頭の下にはあった。鼻と口を塞ぐみたいに、透明で少し緑っぽい酸素マスクが、ゴム臭くていやな感じだった。体の中心部は「鍵の無い拘束具」で、しっかりとベッドに固定されていた。だから、ひたすら真上を水平に保ったまま見ることしかできなかった。大人用のオムツをはいていた。初めての体験だ。オムツの下の性器からは「ゴムの管」が取り付けられて、ベッド脇のビニールの大きな袋を尿で満たしていた。足の先からひざまでは「窮屈なストッキング」が、おおっている。そのストッキングは、指先4本分が出るようになっている。「全身痲酔をした患者さんが、血栓を造らない予防のためのストッキング」なのだという。前が開きっぱなしの浴衣タイプのパジャマだったが、寝相が悪いのか暴れたのか、すっかり体がむきだしだった。「これって、現実?」と、もう一度妻に聞いてみた。「手術前からずっと意識がなかったのよ!」と、妻はなぜか、ぼくの問いには答えず、その時彼女が話したかったことを口にした。強がっているのだろうか、こわばった表情の妻だったが、目には涙が浮かんでいた。

 

幽体離脱

手術のあと、コロ付きのベッドごとで病室などに運ばれる途中、時折、目を開けて周囲を見ていたりすると、真上の景色だけが見える。エレベーター前で、こちらを珍しそうに見る人たちの顔だったり「CT室」などと書かれたサインなども見える。なんだか面倒臭いと感じ、目をつぶると落ちて行く。何故だろう、目をつぶっていても、ちゃん周りが見えるのだ。不思議に視線は揺れて上下していた。自分の肉体の近くなのだが、もっと下だったり、上の方だったり、ふらふらと定まらない視線である。医大の5年生になると「直接患者さんと話す」という実習があるようだ。その中の一人が「あなたはスポーツ心臓ですね」というのを、隣のベッドで聞いた。意識が戻ってから、その人がぼくに「あなたはスポーツ心臓ですね」と、同じことを話し掛けたのだ。「何だ。この人、みんなに同じこというんだ?」と、思ったので」「それって、前にも隣の患者さんにいいませんでしたか?」と、聞いてみた。「いいえ。ぼくはこの話は、あなたにしか話していませんよ」と、ぶ然として答えた。どうやら、彼は本当に「ぼく」にしかこの話をしていない様子だった。「ぼくは、意識が戻る前。隣のベッドの人に、同じ話をしているあなたの話しを聞いていましたよ」と、いうと「そうですか、意識の戻る前のあなたに話したのですが。不思議なこともあるものですね?」と彼はいう。カーテンで見えなかったが、ぼくの寝ていたベッドの隣には、入れ替えの為患者のいないベッドが置いてあったのだ。多分、幽体離脱したもう一人の僕が、意識のない肉体だけのぼくに向かって話すのを聞いたようなのだ。その時はお互いに、それ以上踏み込むこともなく、彼は次の患者さんの元に向かいそれ以来、もう会うことがなかった。

 

幽体離脱その2

手術は本当は別な病院でする方が良かったようなのだが、その時は緊急で、とても動かせる状況ではなかったのだと聞いた。珍しい病気で、まだ日本でも成功例のない手術らしかった。たまたま最初に出会った宿直の脳外科医が執刀した。彼は、良く研究する人でたくさんの手術の経験があった。ただ、何しろ良くわからない手術進行を、麻酔医師と相談しながら手探りで導き出すしかなかった。今はインターネットの時代である。最新の医療知識がネット上に常時更新されている。彼は、若いがネットと病院のコンピューターを駆使するにはぴったりの人材だったようだ。麻酔医師とは大学からの友人らしく息もピッタリだったようで、麻酔と執刀の息が合わないと恐らく生きては戻れなかっただろう。彼らはそれぞれに、論文を発表して、それぞれに成果が認められたと聞く。手術中ぼくの魂は、麻酔が効いていても肉体の中にいると痛くて苦しいので、魂だけになって抜け出してしまったようなのだ。まだ生きている肉体とは魂の尾でつながっていたのだろうが、自由に手術室を抜け出ることができた。手術室のドアの模様がおかしい。その担当医師たちがぼくの肉体を手術している間、妻とその妹である義理の妹は別な場所、待ち合い室のような所で、手術の終わるのを待っているようだった。妻たちが座る椅子の下に、魂のぼくが一緒にいたのだが、誰も気がつかないみたいだった。後で聞くと、食堂で待っていたようで、手術室のドアの模様も変だったという。

 

レットイットビー

ぼくは意識のないまま手術をしたようなので、すべて後から人に聞いた内容を頭で再構築したことが自分の中では現実に一番近い体験というしかない。意識がなくなってから、緊急手術も済み、その後さらに丸一日集中治療室から、ナースステーション隣の大部屋に移されても意識は戻らなかった。普通なら「脳死判定の対象」なのかも知れない。蘇生して、妻がお見舞いに夕方来てくれた時に、ようやく意識が戻った。意識が戻ると書くが、魂と肉体がつながったままになるという意味の方が近いだろう。本人の意識では「手術後、丸一日意識がなかっただけ」と、思っているが、実はその更に約一週間程前から意識が半ばなかったようだといことを周囲の話の総合で判断できた。ナースステーションに一番近い6人部屋は、つまり「何が起きてもおかしくない人たちの部屋」という意味である。集中治療室程ではないが、緊急性の一番高い患者ばかりなので、ナースステーションの近くなのである。ぼくはただ上を向いて拘束具でベッドに固定されて寝ているだけの患者だから、窓も通路も見えないベッドであったが問題はなかった。ぼくはその部屋の中でも、最も介護度の高い人物だったのだという。一旦意識が戻った後でも、まだ、時折自分が夢の中にいるみたいに思えた。ナースステーション横の大部屋にいる他の男性5人も、似たような物だ。右横はもうすぐ転院で、かなり調子良い。お向かいの端は家族を見分けることはできるが、言葉を交わすことはできず、流動食であった。深夜には痰の吸引の音がする。ぼくの真向かいは、一見普通に見える患者だが、片目が見えず半身不随のようである。その隣は、事故で急に脳梗塞となり、半身麻痺になった人。その向かいで、ぼくのもう一方のお隣さんは、普段あまり大きな声が出ない人で、やはり半身麻痺のようだった。この一見大人しそうな人が、実は勝手気ままに深夜ラジオ・テレビの騒音三昧な人だということは、看護婦さんなどにはあまり知れていないし、言っても誰も信じないだろう。人は見かけによらない物だ。お向かいの片目が見えない人も、実は消灯後の深夜にDVDを見ていて天井が明るく明滅するし、昼間もカセットを大きな音で聞いている人なのだ。この二人はイビキもうるさく、深夜はまず一睡もさせてくれない。24時間寝たきりのぼくは、どこかの時間で眠れば良いのである。昼の適当な時間に居眠りをするのが日課であった。片目が見えない人はなぜだかいつも「スピード」と「ビートルズ」を交互にかけていた。みんながリハビリや散歩やお見舞客とどこかに行っている時に居眠りをしていたぼくは、自分の目が濡れているのを感じて起きた。目が覚めてみると、向かいの男の人は「ビートルズ」をかけていて聞いていた、その時は、たまたま「レットイットビー」がかかっていたようだ。ぼくは眠っていたはずなのに、この「レットイットビー」を聞いて泣いてしまったようなのだ。その時以来、時折、お気に入りの「スピードと」「ビートルズ」がかかるので、このお向かいのカセット大音量男のことを半ば許すようになったのであった。退院してからも「レットイットビー」を聞くと、この頃の空気や音や映像の全てが触れる位に鮮明に思い出される。思い出したくもあり、思い出したくもない体験であるのだが。