ivataxiの日記

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両刃のヒゲソリ

今ぼくが使っているのは、両刃のヒゲソリである。フェザーとかシックとかウイルキンソンとかの、昔からある長四角で長い二つの平行する辺がヒゲソリの歯になっているものである。いたって旧式なもので、今みたいなカートリッジ形式の使い捨てではない。中学の頃はあまり考えもなしにおやじのヒゲソリを使っていたのだとおもう。その頃はまだ、髭を剃るのも習慣にはなってなかったのだろう。おそらく習慣として髭を剃り始めたのは、高校を卒業してからだったのだと思う。高校の卒業式当日は受験で関東の親戚の家に寝起きしていた。地元大阪を離れていたので、ぼくは何となく参加しなかったように思う。卒業証書だけは、後で母から受け取った。だが、高校を卒業した実感というものは、今もってないのである。ぼくはできるだけ沢山の大学を受験した。でも現実は厳しく、どの大学にも入れず、ぼくは神奈川県溝の口市にある、多摩芸術学園という専門学校に通うことになった。推薦入学の試験では大阪芸術大学に合格していた。だが特待生になれる実力もなく「私学では学費が高い」ということにして、専門学校の方を選んだということになっているのだが、実際はどうあっても大阪には留まりたくない訳があったのだが、ここでは割愛させていただく。ともかくどのような学校であったとしても、大阪以外の学校に通うようになったのだが「某高校のラグビー部合宿所の住み込み飯炊き男」として、最初の一年間は暮らすことになるのである。お金はほとんどかからなかったのだが、女子禁制という条件が一年後には気に入らなく思えてしまい、そこを出ることになるのである。ともかくその町は「新丸子」という地名である。川崎市の一番東京に近い所である。何しろ多摩川の河原のすぐそばであり、川の向こうは東京であった。電車は東急東横線の各駅しか止まらない新丸子駅」である。となりの武蔵小杉という所で国鉄南部線(今ではJR)と乗り換えることができ、非常に便利な立地であった。専門学校は国鉄溝の口であり、武蔵小杉からも通えたのだが、ぼくは一旦多摩川を越えてから田園都市線に乗り換えて溝の口の通う方が好きであった。それは若い可愛い女の子がより沢山乗っている確率の問題であり、距離や料金では測ることのできない問題なのであった。当時、一番美人が多いといわれていたのは「井の頭線」であったが、明治大学に入る実力のない者にはおよそおよびつかない通学電車路線なのであり、名前は少々田舎臭いかも知れないのだがぼくは比較的ましな路線を選んで通学していたのではないかと自負しているのである。一度などは手塚さとみを見たこともあり「ああやっぱりこの路線に乗っていてぼくの人生間違ってなかったよね」と自分自身に問いかけたくらいであった。ともかく、勉強はできないのだが体だけは丈夫だったせいか、デザインの課題で徹夜続きで、朝は暗いうちから合宿所の部員の飯を炊き、朝飯と昼の弁当を作り続けたにもかかわらず、学校は皆勤であった。合宿所から新丸子の駅までは二十分程歩かなければならないのだが、商店街沿いに歩いて行くものだから、お店の人と挨拶をしながら通っているうちに何件か知り合いになってしまった店もあった。その内の一件であるエンゼル薬局という所で後で大学に通うようになってから四年間アルバイトをさせてもらうことになるのだが、当時はまったくそんなことは考えてもいなかった。やはり縁のようなものを感じてしまうのである。