ivataxiの日記

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おさかなの味

ぼくは静岡県西部に住んでいる。漁港が近く新鮮でお魚の美味しい所だ。おさかなの料理の骨も、割と苦にはならない。そんなぼくだが、最初からおさかなを食べるのが好きだったのではない。17歳まで暮らした大阪では、おさかな料理には関心がなく、食べ方も下手で、特に小骨は苦手だった。神奈川の専門学校に通うことにはなったのだが、住むあてはなかった。中学のバレーボール部の一人がラグビーに転向していて「400mが早かったからか神奈川の合宿所のあるラグビー部に引き抜かれた」と、本人はいう。「今度卒業したらオレの部屋が空くから、監督にいってやる」というので、お願いした。母親と二人で勝算はなかったが、その新丸子の合宿所に行ってお願いした。その合宿所では、朝食の支度を合宿所のメンバーが交代でしているので「住み込みで飯炊きをする」という条件で、神奈川での専門学校生活が始まった。親元で過ごした頃には、食事の仕度などしたこともなかったが、いきなり30人程の朝食と昼のお弁当を早朝毎日作る日々が始まった。ぼく一人分の朝食・昼食・夕食を除けておく位たやすいので、食費は浮いた。大阪の中学の友人が名古屋に転向していて、名古屋に泊めてもらったお礼に、彼をその合宿所に泊めたことがある。夏休みで、部員はほとんどいなかった。お米はたくさんあったので、ぼくの「お手製焼き飯」を作ってあげた。すると彼は「こなまずい物食ったことない」と、本気で怒っていた。そんな味覚異常のぼくの作る朝食を、ここの合宿所の部員たちは、何も文句をいわずに食べている。彼らは、筋肉だけでなく強靭な忍耐力の持ち主だったのか?それともぼく同様に異常な味覚集団だったのだろうか?それは今も謎に包まれている。その合宿所はもちろん女子禁制だった。合宿所の風呂は監督の自宅に板一枚を渡して、素っ裸の男たちがタオル一枚で前を隠して5人位づつ走って行くという決まりになっていた。自信のある男たち、あるいは露出僻のある奴は最後の砦であるタオル一枚さえ、肩にかけて揺れながら走って行く。「そんな所に女子など呼べる物か」と、常識で考えても思うだろう。溝の口洗足学園の隣にあった(今は洗足学園の敷地となっている)専門学校の友だちの四畳半には良く泊まりに行った。その彼は女友達が多く、時折、忘れていったのか女性の下着も無造作に落ちていたりしても、まったく気にしないような人だった。そこに別の科の女の子が遊びに来ていて、顔見知りとなった。何もない貧しい男の一人住まいには似合わない色白の可愛い女の子だが、芯が強そうなのは眉の辺りに出ていたように思う。彼女の家は、原宿でレストランをやっていて「今度二人で食べにおいで」というのをまに受けて、二人で腹ぺこコヨーテみたいに原宿に参上した。「今日は私のオゴリよ。何でも頼んで」というのだが、ぼくはこういうのは決められない優柔不断な人でもあった。彼女は「お肉にする、それともおさかな?」と、しびれを切らして眉間をしかめて聞いてきた。「ぼくはおさかなはどうも」と答えた。すると彼女は「おさかなが食べられないなんて、不幸な人ね」と、言葉で刺した。その後は、何を食べてどんな味だったのか、感じることができなかった。この一言は、今も忘れることができない。その後、専門学校を中退し、浪人の末、神奈川の大学に通った。そこで出会った静岡の女性と25歳で結婚した。妻は静岡県西部の商店の娘である。就職先を辞めて、26歳でその商店に籍を置くことになったぼくは、田舎の良くある商工会青年部などの付き合いで、酒を飲むようになった。酒の席が増え、酒の臭いのする日々を過ごした。友達はできなかったが、多くの酒の知人はできた。お金も無くなるが、酒場で過ごす時間は長くなる。時間稼ぎに食べるのに時間のかかる物を自然と頼むことになる。具体的には、スルメ(アタリメ)・乾き物(豆や小さな硬いお菓子)、そしてついに「小骨を取るのが面倒で時間がかかるおさかな料理」にたどり着くのである。思えば長い回り道だった。酒浸りの日々は十数年だったが、人生の一番花盛りの時を、真空のうちに過ごしてしまった。村上春樹的には「ドーナツ化」という表現になるのかな。だが、その無為とも思える十数年だが、その期間にぼくは「おさかなを上手に食べられる中年」に変身していたのである。現在、肉体的・病的・精神的、まあやっぱり経済的理由で、お酒にまつわる世界から遠のいて久しい。お酒の上の知人というのは、お酒を仲介しないと冷たい物なのである。朝まで起きて外を出歩いて飲んでいたような生活だったが、今はパソコンに向かって文字を打ったりというオタク化した生活に変わった。お酒を飲まないと舌・味覚も変わる。今は、薄味のおさかなの方が好きだが「おさかなを食べるという技」は、お酒を飲んだ期間に自然に身についてしまったようだ。「おさかなが食べられないなんて、不幸な人ね」という言葉は、今もって忘れることはできない。かといって、そのことで眠れないという程でもない位に、自分の中で一つの解答は出ているみたいだ。今では「おさかなが食べられないなんて、不幸な人ね」といわれれば「そうだね。確かにそうなのかも知れないね」と、落ち着いて答えられそうにも思えるのである。