ivataxiの日記

絵 文章 映画

さかなたち

それは日本がまだ「バブル」と呼ばれていた頃のこと。小倉駅に降りたのは、その時が初めてであった。その日の夕方、小倉のある人のお宅でフグをご馳走してくれるというので、わざわざ静岡からやってきた。彼は「若ダンナ」という言葉が似合いそうな男である。新幹線を降りると小倉駅には知る人はない。ホームを見回しても出迎えなどあるはずもない。新幹線の階段を人波に取り残されながら、一人でゆっくり降りて行く。階段の中ほどに、眼光鋭い目の大男が階段の上を見上げて立っていた。その男が今夜ご馳走になる若ダンナご本人であった。早く来る客人が迷うといけないからと、出口を固めていたのだという。「まだ、時間があるな。寿司でもどうだ」と、六才年上の若ダンナにいわれるまま、後についてモノレール側出口から外に出た。JRからモノレール乗り場までの間は歩きである。それがこの町の商店街の人たちの決めた街の流儀らしい。しばらく歩き、商店街の小奇麗なテナントの二階の寿司屋にぼくらは腰を落ち着けた。街路は細めで歩くには丁度良い。ぼくはカウンターの一番端に腰掛け、若ダンナはその横に座った。ランチタイムは過ぎていたがカウンターは1杯だ。カウンターの中にいてもくもくと寿司を握る大将にすべて任せているらしく、注文など一切しないで適度な間を置いて目の前のよく磨き込まれた板の上に乗せられるままに寿司を口に運ぶ。見るからに切れ味の良さそうな包丁で裁かれ美しく盛られた寿司たちを見ていると、食べるという本来の目的を忘れ、なんだかすぐ食べるのがおしいと思える程である。最初のビールでいくらか口も滑らかになり、若ダンナが小倉に帰って来る前は、東京の商社にいたのだということを初めて聞いた。ぼくのおじさんの一人が商社マンだったのでその名前を出して見た所、偶然にも彼とは知り合いだという。若ダンナはおじさんの部下であったという。アメリカでは、二人きりで無茶な活躍をしていたという。商社時代を語る時の彼は若く楽しそうに見えた。商社を辞め小倉の彼の会社に戻ってからは、倍々成長が続いたのだという。そのすぐ後、バブルが崩壊することなど知らない我々は、まだまだ続くであろう右肩上がりの経済のその後の夢を語らった。若ダンナは仕立ての良いスーツを着ていた。上着は脱いでいたがシャツの袖にわずかに醤油が飛んだ。下を見てばかりいるのかと思ったカウンターの中の大将は、表情を険しく変えていた。粗塩を無造作に鷲掴みにして、カウンターの上に三角の小山に盛った。カウンターの外で女将さんが、その粗塩を袖についた醤油の上に素早くこすり付けおしぼりで拭き取った。それは一瞬のできごとであった。その様子を横目で伺っていた客たちも、ことの成り行きを見届けるとまたそれぞれの談笑に戻って行った。何事もなかったように、ぼくらも話の続きをした。ぼくは心の中で、鮮やかなこのカウンターの中の大将と、外を守る女将との「息」に目を見張っていた。一方若ダンナの方は、見慣れているのか意に介さない風であった。「コーヒーはどうだ?」と、若ダンナにいわれ、また、暖簾をくぐりついて行った。部屋に風が入って吹き抜けてゆくように彼は店に入って出て行った。その間、一切勘定の話はなく、大将と女将の威勢の良い送り出し文句に背中を押され、ぼくらは外の空気をかいだ。

どうしてだか激しく胸が痛んだ。祭の太鼓のような心臓の音がはっきりと自分の内側から聞こえてくる。もう少し見ていたいような夢の続きに、その音は無理やり張り付いて重なってくる。現実に引き戻されて目を開ける時には、ガムテープを剥がす時のようなバリっという抵抗を上と下の瞼に感じていた。そこは見慣れない家具のある天井が斜めに迫る小さな部屋だった。ベッドにぼくは横たわって眠っていたようだ。天井にはくりぬいたような出窓があり、天体観測の趣味でもあれば良かったのにと思ってしまう。その窓からは夜空の月や星の明りが、光の布のように床に向かって繋がっていた。ぼくは見慣れないパジャマを着ていた。ぼくは友人の家で泊まっていたのだった。といっても、遊びに着て歓待されているのではなかった。どちらかというと、タコ部屋という方が当っている感じなのだった。

1977年のどちらかというと夏に近いの春先のある月曜日だった。ぼくは東海道本線の上り各駅停車に乗っていた。新幹線とは違って、湯河原に着くまでには何回かの乗り換えと、それにともなう時間が必要だった。その引き替えに料金は安かった。自宅のある鷲津からだと、湯河原はむしろ東京に近く対座式だったりベンチ式だったりする座席にゆられかなり疲れることになる。が、いずれにしても座れればいうことはないのである。どんなに朝早く出発したとしても、どこかで必ずラッシュにでくわすことになる。サラリーマンや学生さんで電車の中はにぎわう。席を譲る勇気を持ち合わせないぼくは、目をつぶってやりすごす。飲み物が欲しくなったりトイレに行きたい時などは仕方ないから一旦おりて電車を一台のりすごすことになる。すると今度は座れずに、タヌキ寝入りに席を譲ってもらえない番が来るのであった。閉じたまぶたの明るい夢色の世界に、次第に打楽器のような心臓の高鳴りが響いている。胸全体がふくらんで、次第に圧迫されるような痛みがある。激しい運動をしたわけでもなかった。バクバクという鼓動が高まる音が耳にまで響き、夜中に目覚めてしまった。てっきり自分の部屋だと思って起きたら、そこは屋根に取り付けられた天窓から、透き通って青みを帯びた夜空の光が静かに差し込む寝室のベッドの中であった。自宅なら、自分の匂の染みた寝具だろうし、目の前の天井は低く古びた木目のはずだった。体が沈み込むようなベッドも、厚みのわりに軽い羽根布団も、真新しいフローリングの床も、ぼくには高級過ぎるようだ。束の間の夢の世界を旅する魂が、この肉体に戻って一体化するにつれ、少しづつ現実の状況がわかり始める。月曜日に自宅を出て、朝一番の各駅停車に乗り、ぼくは湯河原で降りたのだった。「亜多加」という広告代理店で金曜日までアルバイトするためだ。日曜日にファックスで送ってあったイラストを、月曜日から現場で仕上げてコンペで仕事をとろうという目論見であった。「だめなら五千円、成功すれば五万円」ぼくの手元に入るということで、運賃と宿泊は持ってくれるという話しだった。本業の化粧品店が次第に行き詰まり始めていた。そして、十五年前まで広告代理店のデザイナーだったのだから何とかなりそうに思えたのだ。または、単純に「おもしろそう」という動機だったのかも知れなかった。駅に着くなり、湯河原の駅前を海に向かって歩いて行く。その道は広く、なだらかな下り坂で、温泉地らしい風情と住宅地の日常的な空気が混ざり合った感じであった。都会の観光客相手の温泉旅館はすぐ駅の近くのこの道沿いに立地している。いくつめかの信号のところにコンビニがあり、そこからすぐその広告代理店は見えるはずだ。入り口の前の歩道に三台程車が駐車していて、その店舗を隠していた。「自動車で来ないで欲しいというのは、このことだったのか」。そこの社長である古河君は、ぼくより五つは年下だったと思ったが、たぶん五つは年上に見えるのではないだろうか。太く真直ぐに上がった眉、大きくはっきりとした二重まぶたの目、鼻筋の通った太くて大きな鼻、大きくてきりっとした口元、天然なのだがまるでパーマをいつもマメにかけているみたいな髪形。どれをとっても、社長といった風である。「電話くれたら迎えに行ったのになあ」と、パソコンの画面から目を離さずに、彼は大声でぼくに声をかけた。昨年ここに初めて来た時もそうだったのだが、やはり今回もぼくはジーンズにリュックに運動靴である。ぼくはしばらく所在なく、入り口付近の作業台に折り畳み式の椅子を勝手に出して座っていた。「随分部屋のレイアウト、変わったと思いません?」と、ぼんやり室内を見回すぼくに、彼は相変わらず画面から目を離さずに声をかけた。「うん、そうだね」と、ぼくは無責任に答えた。ぼくはいつだって悪気はないのだが抑揚のない話し方だし、無表情なのできっとすごく損をしているのだろう。奥さんのゆかりさんは、別のパソコンで作業をしている。しばらくして、「トンちゃん」と呼ばれる女性が入ってきた。彼女はたしか智子か智美という名前だと思ったが、ここの社員である。スタイルは良いのだが、タバコの吸いすぎだからなのか声が随分とハスキーなのである。顔は好みにもよるが十人並み以上だが、眉にクセがあった。営業も兼ねている彼女は少し不規則な出社を許されているのかも知れなかった。「どうぞ」。習慣でそうするみたいに、彼女は何も聞かずにドリップで入れ大きめのカップに入れたコーヒーをぼくの前に置いた。「あっ、ども」ぼくはやはり気が利かない。彼女はぼくより十才は若いはずだが、妙に落ち着いていてなんだか呑まれてしまう。ぼくはその後も勝手におかわりして飲んでいたから、合計すればかなりの量を一日に採ってしまったのかも知れなかった。それが夜中に心臓がバクバクした原因だろうと、自分なりに納得したので少し安心した。店の資金繰りが大変なのはずっとなのだが、「どこかに働きに行って」と妻から冗談ではなくいわれるこの頃であった。そんな内容の手紙を古河君に書いたものだから「他の会社で働くなら、うちで一ヵ月働いてみませんか」というような話しになり「とりあえず、一週間」ということで今回の話しとなったのである。閉じたまぶたの明るい夢色の世界に、次第に打楽器のような心臓の高鳴りが響いている。胸全体がふくらんで、次第に圧迫されるような痛みがある。激しい運動をしたわけでもなかった。バクバクという鼓動が高まる音が耳にまで響き、夜中に目覚めてしまった。てっきり自分の部屋だと思って起きたら、そこは屋根に取り付けられた天窓から、透き通って青みを帯びた夜空の光が静かに差し込む寝室のベッドの中であった。自宅なら、自分の匂の染みた寝具だろうし、目の前の天井は低く古びた木目のはずだった。体が沈み込むようなベッドも、厚みのわりに軽い羽根布団も、真新しいフローリングの床も、ぼくには高級過ぎるようだ。束の間の夢の世界を旅する魂が、この肉体に戻って一体化するにつれ、少しづつ現実の状況がわかり始める。月曜日に自宅を出て、朝一番の各駅停車に乗り、ぼくは湯河原で降りたのだった。「亜多加」という広告代理店で金曜日までアルバイトするためだ。日曜日にファックスで送ってあったイラストを、月曜日から現場で仕上げてコンペで仕事をとろうという目論見であった。「だめなら五千円、成功すれば五万円」ぼくの手元に入るということで、運賃と宿泊は持ってくれるという話しだった。本業の化粧品店が次第に行き詰まり始めていた。そして、十五年前まで広告代理店のデザイナーだったのだから何とかなりそうに思えたのだ。または、単純に「おもしろそう」という動機だったのかも知れなかった。駅に着くなり、湯河原の駅前を海に向かって歩いて行く。その道は広く、なだらかな下り坂で、温泉地らしい風情と住宅地の日常的な空気が混ざり合った感じであった。都会の観光客相手の温泉旅館はすぐ駅の近くのこの道沿いに立地している。いくつめかの信号のところにコンビニがあり、そこからすぐその広告代理店は見えるはずだ。入り口の前の歩道に三台程車が駐車していて、その店舗を隠していた。「自動車で来ないで欲しいというのは、このことだったのか」。そこの社長である古河君は、ぼくより五つは年下だったと思ったが、たぶん五つは年上に見えるのではないだろうか。太く真直ぐに上がった眉、大きくはっきりとした二重まぶたの目、鼻筋の通った太くて大きな鼻、大きくてきりっとした口元、天然なのだがまるでパーマをいつもマメにかけているみたいな髪形。どれをとっても、社長といった風である。「電話くれたら迎えに行ったのになあ」と、パソコンの画面から目を離さずに、彼は大声でぼくに声をかけた。昨年ここに初めて来た時もそうだったのだが、やはり今回もぼくはジーンズにリュックに運動靴である。ぼくはしばらく所在なく、入り口付近の作業台に折り畳み式の椅子を勝手に出して座っていた。「随分部屋のレイアウト、変わったと思いません?」と、ぼんやり室内を見回すぼくに、彼は相変わらず画面から目を離さずに声をかけた。「うん、そうだね」と、ぼくは無責任に答えた。ぼくはいつだって悪気はないのだが抑揚のない話し方だし、無表情なのできっとすごく損をしているのだろう。奥さんのゆかりさんは、別のパソコンで作業をしている。しばらくして、「トンちゃん」と呼ばれる女性が入ってきた。彼女はたしか智子か智美という名前だと思ったが、ここの社員である。スタイルは良いのだが、タバコの吸いすぎだからなのか声が随分とハスキーなのである。顔は好みにもよるが十人並み以上だが、眉にクセがあった。営業も兼ねている彼女は少し不規則な出社を許されているのかも知れなかった。「どうぞ」。習慣でそうするみたいに、彼女は何も聞かずにドリップで入れ大きめのカップに入れたコーヒーをぼくの前に置いた。「あっ、ども」ぼくはやはり気が利かない。彼女はぼくより十才は若いはずだが、妙に落ち着いていてなんだか呑まれてしまう。ぼくはその後も勝手におかわりして飲んでいたから、合計すればかなりの量を一日に採ってしまったのかも知れなかった。それが夜中に心臓がバクバクした原因だろうと、自分なりに納得したので少し安心した。店の資金繰りが大変なのはずっとなのだが、「どこかに働きに行って」と妻から冗談ではなくいわれるこの頃であった。そんな内容の手紙を古河君に書いたものだから「他の会社で働くなら、うちで一ヵ月働いてみませんか」というような話しになり「とりあえず、一週間」ということで今回の話しとなったのである。

少し早い夕方の柳通り。酔って歩くこのあたりの夜は、ゆるめたネクタイ姿の男たちの奥底に眠る、オスを目覚めさせるようなきらめきを放っている。ネオンのまたたきの中を赤く光る眼を持つ大蛇みたいなタクシーの群れは、ゆっくりと路地に鼻先を突っ込んで進んで行く。酒は理性や神経の鋭さを適度にうばい、ふくれあがって満たされない欲望を、ささやかなこの街の快楽のひとときに置き去りにする。ちとせと呼ばれるこの辺りは、男たちにそれなりの快楽を供給してくれる機能を持つ街。通りの出口近くにあるたばこの自動販売機の前に立つ男。この特に特徴のない中年は、ありきたりな銀のフレームの老眼鏡をかけていた。白髪の目立つウエーブの少し入った髪を、主張のない七三分けにしていた。小さな小銭入れの口に不器用に指を入れ、財布を覗き込むみたに少し猫背に背中を丸め、いたずらに小銭を弄んでいる。彼が今夜の幹事である。「早いせすね」と、先にぼくから声をかけられ、その後ろ姿は一瞬ビクついているようだった。相手が年下のぼくだと気付き、おもむろにゆとりをかもしだしながら、ゆっくりと振り替えった時には、いつもの威厳のある笑顔になっていた。会場の建物は、柳通りを一旦なめだの方まで抜けてしまったところにあった。以前にここに来た時には、別の屋号で持ち主も変わったという。

ぼくは浜名湖の近くの鷲津という町で妻と二人、細々と化粧品店を営んでいるのだが、化粧品店の売り上げもこのところ落ち込んでいろ。そうした成り行きからして、ぼくが色んなアルバイトなどをしないとやって行けない状況となってしまったのである。この一年はあまりお金にはならないのだがかっこいい仕事のように思えて、専門学校の非常勤講師のバイトにはまっていた。だが、二月からは学校が春休みだったりして、何か他のバイトをと考えていたのである。そこへ知人から「カメラマンの助手のバイト」の話しがあり、この二月から三月にかけてはカメラマンの助手をしていたのである。考えて見ればぼくが大学を出て初めて就職した印刷のデザインの会社では、時折撮影の立会もしたのだが、そんな中でそのカメラマンとはすでに会っていたのである。ぼくは彼と特に親しかったわけではなかった。だから、そのカメラマンとしても少しは困っていたからぼくに電話をしたのだろう。「大西君、北海道とか撮影の助手として一緒に行ってくれんかね。前にいた助手が就職しちゃってね。」という誘いであった。そのカメラマンは静物や建物を得意とし逆にいえばモデルの撮影は不向きなのかも知れなかった。彼の撮影した建物が大きな賞を取ったこともあって、今仕事は多いようだった。太陽に関係したパネルを屋根に乗せた建物を撮るために、カメラマンとぼくは一路会津にむかっていた。途中東京でその建物を設計者と合流して、東北新幹線に乗り換えた。十年ほど前に東北新幹線に乗った時は、確か上野から乗ったと思ったのだが、いつのまにか東京で乗り換えができるようになったようだった。三人掛けの席に座る。本来なら顔見知りのカメラマンと設計者が隣同士に座れば良いと思っていたのだが、なぜかぼくを間にはさんで座った。それでいて、二人はとても仲が良いらしく真ん中のぼくを飛び越えて二人で会話を続けていた。ぼくはその会話に入ることも諦めて、持ってきた本に目を落とした。郡山で在来線に乗り換えた。途中雪を見つけて珍しく思えたのだが、目が慣れるにつれ何も感じなくなった。標高も結構高い所を電車は走っていたではないかと思う、耳が聞こえにくくなり欠伸をすればそれは直った。気温が下がりそれにつれ電車の暖房が異常に暑くなったが、それで丁度良いというかんじであった。カメラマンは五十を少し過ぎていたし、結婚もしていたが相変わらずジーンズを愛好している。仕事の関係で日に焼けた額はいくぶん広く感じたし、神経質な表情ジワは笑うと世良正

人生の軸が狂う時期というのが誰にでもあるのかどうかはわからない。けれど、バブルのはじける少し前あたりのぼくは、まさにそんな感じであったと思う。たぶん本当にお酒が強くて好きだというのではなく、自分がお酒をたくさん飲めることやお金を払う力があることを自他共に認めさせたくて、そんな毎日を送っていたのかも知れないとも思う。最初は地元の飲み屋から始まり行動半径は次第に広がっていった。都会で会合があれば、最初は色気を出して女の人が隣に座るような店に行くのだが、最後はマスターがカウンターで酒を出してくれるようなショット・バーに男たちは行き着くようだ。根っからの酒好きという男たちの習性なのかも知れない。都会ならどこにもあるのだから浜松にもそんな店があるはずだと、人づてに聞いて探してみたことがある。他にも良い店はあるだろうがぼくが見つけたのは「街の灯」という渋目で通人のマスターが酒を出してくれそうな名前の店である。酒の名前や味、飲み方の作法や自分の適量さえわからないぼくに、カウンターごしのクールな会話で受け答えするマスターであった。飲み友だち三人で行ってみたのだが、まともに話していたのは最初だけで最後はどうやって帰ったのか思い出せない程酔っていた。最近浜松での二次会で何気なくこの店に行ってみる機会があった。店は盛況でカウンターに座わるのはあきらめた程である。今は酒を飲む習慣もなくなったぼくではあるけれど、この店の良さをわかる人がいることを確認できて良かったと思う。

土曜日の午前中は 余程のことがない限り、近くの町民温水プールで日頃の運動不足解消のために泳ぐように心がけている。町民は半額だが、そうではないぼくとしてはお金を払う時、やりきれない切なさを二倍も感じることになる。それでも他の私設プールと比べ庶民的な金額なので納得しているのである。どうした訳か、このプールの男子と女子の更衣室の間には、どちらの入り口からでも入ることができる、二畳ほどの立ったまま入るサウナのような部屋がある。この部屋は、暖を採るという意味からか「採暖室」と呼ばれている。スケート場などに行くと見かけることがある採暖室と同じなのだろう。だけど、スケート場の方が本格的に寒いから、必要に迫られた感じのするネーミングだと思うのだが、温水プールの場合はそう寒くもない訳で「サウナ」だってかまわないとも思える。その部屋というのはその狭さが幸いしてか、サウナと呼ぶに十分な熱量を確保しているのである。水着で立って入るということを除けばやはりサウナとはっきり公言してしまっても良いとも思えるのだが、公立の施設なので風俗の匂いはのする表現が使えないのかとも思える。太目のぼくとしてはしっかり汗が出るので、少しやせる気がして嬉しい訳である。水泳の後などは耳せんをしたまま入るので、心拍数がある一定のレベルを越えると自分の鼓動が耳せんの内側に脈打つのがわかる。そうなったらもう長くは入っていられないのである。この部屋はエレベーターの気まずさがある。だから他の人とはなるべく目を合わさず、そして話しかけないよう心がけている。例えば男ばかり三人程でその部屋に入っている時などには、部屋の暑さも手伝って互いに言い知れない気まずさと、けだるいやりきれなさを感じている訳である。こういう男同士裸同然という状況下では気がゆるむものなか、普段からポッチャリしたぼくのオナカが更にだらしなく丸みを帯びて来るのである。水着を着けているのだから特に何という問題もないはずなのだが、考えてみたらこの部屋は男女混合使用なのである。突然、女子更衣室のドアが開く音がしたならば、男たちは反射的に筋肉に力を入れることになる。上半身をできるだけ逆三角形に近い形に維持し、背筋を伸ばす。そして息を止めオナカをひっこめ、ニッコリ白い歯を笑顔の半月形に開いてキープするのである。野性的に見える表情にして、瞳には燃える炎を灯し、女子更衣室のドアの方に視線を泳がせるのである。冷静に人のことを観察している側のぼくも、気付くとやはり自然とそんな風になっている。男のサガの浅ましさを恨みつつも、オナカの力を緩める訳には行かないのである。だがもし期待がはずれてしまった場合には、また元のブヨブヨ男たちに戻ることになる。土曜日の温水プールにぼくが通うのは、純粋にスポーツを満喫するためであり、採暖室なんて目もくれていないことが、良くおわかりになって頂けたと思うのであります。

MTBというのはマウンテン・バイクの略らしい。マウンテン・バイクというのは、山道でも走行可能な自転車ということであろうか。確かに、太めでガッチリとしたタイヤにはゴツゴツとしたパターンが付いていて、地面が多少すべりやすくても何とかなりそうな気にさせるのである。また、少し小ブリなフレームは軽さに加えてガッシリとした印象も与えてくれる。万一悪路が続いてしまっても、はたまた転倒してしまっても、自転車本体は大丈夫な感じを与えている。

自動車の免許も、二十四才と取得が遅かったのだが、中型の自動二輪の免許を採ったのも、二十九才と遅かったぼくである。二十五才でロードパルという原付を手に入れるまでは、バイクという乗り物に何の関心もなかったのである。その後、控え目にいっても何度かの転倒を経験し、鎖骨を折ったりもしたのだが、その乗りにくさにかえってひかれてしまったような所もある。原付だけで七台ばかり乗り継いでしまった。だが、リミッターという物が付いている限りせいぜい時速六十キロも出れば良い方である。実際の路上では、制限速度という縛りは、ネズミ獲りのある区間以外では無視されているようだし、時速三十キロですべての道を走り続けるということがいかに困難なことかは、体験してみればわかることである。            

どことなく生活感のないリッチさや、映画のセットみたいな町並みとヤンママ・ファッションが気に入って、誰がなんといおうとぼくのジョギングコースは佐鳴台と決めてしまったのである。おそらくそこの住人は顔が知られているため、「ご存知おくさま?あちらの奥様ったら昼間から走ってらしたわよ。やあね」などと井戸端会議で陰口をたたかれるのがオチなので、きっと佐鳴台を昼間から走ったりしないだろう。だからなのか、時折走っていてすれちがうのは、外人や学生だったりすることが多いのだ。ぼくの場合は、足を痛めてしまったことが走り始めた直接のきっかけだったので、自然と平坦な道を選んだコースとなる。水は低い所を流れるから、水路沿いに走れば足の負担も少ないだろうと考えた。歩くよりは少し早目のペースでノンビリ走ることにしている。走り始めた頃は足を痛めたばかりで、犬と散歩している老人を抜き去るのにさえ容易ではなかった。ゆっくり走る単調さも、この町の景色は紛らわせてくれる。いつも同じコースだからなのか、春夏秋冬の移り変わりをかえって強く感じてしまうのだ。健康的な夏も落ち葉の敷き詰められた秋も良いけれど、クリスマス前の町並みというのは、心待ちしたパーテイーに精一杯着飾って行く少女みたいで、いつもより少し華やいでいるようだ。クリスマスがこんなに派手になることを、江戸時代の日本人には想像できなかったに違いない。日本では正月に門松を出すように、西洋では家の外をリースなどで飾るらしい。「それは、道行く人の目を楽しませるためのプレゼントという考え方なのだ」とテレビで解説していた。クリスマス・イブに佐鳴台のいつもの道を車で走っていた。ある家の前が路上駐車のお陰で渋滞していて動けなくなっていた。様子を確かめたくてぼくも車を乗り捨てて行って見た。ライトアップと点滅する数え切れない電球の中、その家は丸ごと大きなデコレーションケーキのように夜の暗さにひときわ映えて見えた。無責任な路上駐車の輩は、その家を背景にしてプリクラ状態で記念撮影に耽っていたが、止める人より真似をする人ばかり増えて行くようにも思えた。クリスマスも終わり、その家の近くを走って横切ったことがあったのだが、派手なクリスマス飾りの後片付けをしていたのはその家の住人だけで、イブの日にはしゃいで撮影していた沢山の無責任な人々の姿がなかったことはいうまでもない。

この辺りでは月水木は誰が何といおうが赤ん坊が泣こうがごみの日と決まっているのである。土日は週末だから考えに入れないとしてウイークデー五日のうち半分以上である三日間がごみの日ということになってしまう。メーカー名入りの段ボール箱に何でもかんでも入れて以前はごみを出していた。メーカー名からこの店のごみということが知れて近くの住人や店の大家さんまでが苦情をいいに来たのである。その後も何となくあてこすりや嫌味・中傷などで精神攻撃が続く日々であったがそれももさることながら、店をやる上で地域住民との摩擦は百害あって一利なしだと判断した。段ボールや雑誌などは集めて受産所へ持って行くと、何らかの利益がその施設にもたらされると聞いた。ごみ処理場の関係とかで次第にごみの出し方が厳しくなっているようで、指定の袋で出さないでスーパーの袋や黒いビニール袋などで出したりしょうものなら、大変である。どこからともなく監視の住人がやって来て市長あたりの権力の傘を着てどたける(どなる)のである。ごみを出す時間も決められていて、前日の夜のうちに出そうなどという考えは甘いのである。ごみ収集車が来る一時間前後が理想なのである。この辺りではごみ出しを徹底したためカラスやノラネコも飢えているのか、早く出した生ごみなどはズタズタにされて中を食べられ散らかされてしまうのである。「燃やせないごみ・燃やせるごみ」から「燃」と「ごみ」の字を取ると「やせる・やせない」となり自分のことを噂されている時のような気持ちになるのはぼくだけであろうか。ある人から「俺は燃えないごみだがおまえは燃えるごみだなあ」と変な褒められ方をしたことがあった。一体喜んで良いものなのだろうか。月に一回だけは粗大ごみの日というのがあったがいつのまにかなくなってしまい、それに変わってということなのかリサイクル分別収集の箱がその場所に現われた。ペット・ボトル、発砲スチロール、プラスチック、缶などに分けるのだがとっても面倒なのである。その近くには瓶を回収するコンテナが置いてある。透明、茶色、その他の色などに分けてあり場合によってはコンテナは盛り上がってしまうのだ。ぼくは大きいポリバケツにリサイクルごみを入れてママチャリの篭に乗せて持って行く。瓶が路上に落ちたら破片を用心深く拾い集めるのだがそういう時に限って見通しの悪い狭い曲がり角だったりして、いつの間にか命懸けの仕事になってしまうのである。こう見えても神経質な所のあるA型のぼくである。ごみに関係ない火金は朝から何だか手持ちぶさたで落ち着かない。文句は言ってもぼくはごみの日を愛しているのかも知れないとも思うのである。

それは十数年前のこと。浜松の街も、今のように整備されていなかった頃だった。狭くて暗い雑然とした街路は人でにぎわい、街がクリスマスの飾りで彩られる頃にはいっそうカップルなどで華やいで見えた。ぼくを含め十人を少し超える団体が、そんなある日の更紗屋の店内の一角で、なぜだか突然思い立ってクリスマス・パーテイーを初めてしまった。ゲームが終わり、一段落した参加者の関心が食事に移る頃、突然「カタン」という硬い音が店内に響いた。それは食事の途中、何の前触れもなく立ち上がった拍子に、背の高い背もたれのある木の椅子を、男性が倒してしまった音だった。彼はその時、他の参加者や店内の別の人たちの目にさらされ、気まずくバツが悪そうに立っていた。端正で生真面目そうな顔立で背の高い彼は、既にそれだけでも十分店内の人目をひいていた。だが、この時、周囲の様子はそれとは少し違っていた。彼もそれを察したのか「別に何でも」と、気まずそうに誰にいうでもなく言い、椅子を起こした。そして、またしても食事を始めたのである。彼の聡明な額には大粒の汗がみるみるふくらみ、寒い日のお風呂場の窓の内側の水滴みたいにやがてくっついて流れ落ちていた。赤らんだ真剣な表情。充血してカッと見開き、一点を見つめたままの目。彼の男性的で太い眉は、十時十分の時計の針の形につり上がり、すらりと通った鼻筋の鼻腔はヒクヒク開いたり閉じたりを繰り返していた。呼吸は荒く、食べ物をほおばったままの口元は動きを止め、体をこわばらせていた。またしても「カタン」という音が店内に響き、彼は洗面所に走った。見ると、彼の席にはドライカレーが食べ残されていた。この店のマスターは、美味しいものを沢山食べた人にありがちな小太りで、一見すれば人の良さそうな人相なのだと思う。「彼はきっと、生まれつきニコヤカな人に違いない」と、ぼくは勝手に想像していた。だが思い起こすに、今日のマスターは何だか様子が違っていたようなのである。ドライカレーをテーブルに置いた時、さりげなく「からいですよ」と、誰でも知っていることを念を押すみたいに、一区切り言葉を呑んで微笑んだことを、ようやく思い出した。この時のマスターのニコヤカさの中には、卑屈さや翳りと言うものが微塵もなかった。その上、笑顔の形のままの目には、メラメラと燃えるような自信がみなぎっていた。もしかして、あの「マスターの自信にみなぎるニコヤカさ」の裏付けというのは、これだったのかも知れないという疑問が、ぼくの心の中にふつふつと渦巻き始めた頃、洗面所からさっきの男性が戻り、何事もなかったみたいに席に着いたのだ。そしてまた、やり残した仕事に向かう人のような思いつめた表情で、黙々とドライカレーの続きを食べ始めたのだ。「いや、それはぼくの考えすぎだろう」と、かぶりをふりつつ、ぼくはぼくなりに用心してドライカレーを食べることにした。考えてみると、ここでドライカレーを食べるのは初めてのことであった。ともかく一口ドライカレーを食べてみた。その辛さを一言で語りつくすのは容易ではない。というのは、一見ごく当たり前のドライカレー風味の弱々しい味付けに見せて油断させつつ、いつのまにか得体の知れないエスニックな辛さが舌に蓄積して浸透し、時限爆弾のようにある一定の線を超えると、セキを切ったように口の中で爆発し暴走するといったたぐいの辛さなのだ。またしても「カタン」と音がした。見ると、やはりさっきの彼が立っていた。この店のドライカレーの「辛さという痛み」が麻痺させ狂わせてしまったのは、舌の感覚だけではなかったようだった。この辛さの中には、その後の人生において、人柄や生き様さえも変えてしまう程の強さというものが秘められていたのかも知れないとさえ思える。更紗屋でドライカレーを注文する時には、マスターの笑顔の中の真意というものを、じっくり考えながら味わって欲しいのである。

ぼくのお気に入りのランニングシューズはニューバランスである。四十才の頃に、肉体的な限界を感じてしまい、逆に居直ってトライアスロンに挑戦したことがあった。勿論早い訳はないのだが、ビリということもなかったのである。半年という期間は何物にも換えがたい存在として、トライアスロンに夢中になっていた。今はもうやっていないのだけれど、自転車や水泳着などと共に運動靴も残った訳である。自転車はローラーで固定して応接間に置かれているし、水着はいつも自動車のトランクに使う予定もなく放り込まれているのである。だが、運動靴は走るためだけではないのだから、普段歩いたりするのにも使えるのである。良く使っているうちに靴底の固いかかとの部分だけが削れてしまい何だか歩きにくくなってしまった。歩きにくくなると、他にもっと歩き易い靴があれば知らずにそちらを履いてしまうのが人情というものなのであろう。しばらくは水着と共に自動車のトランクに眠っていたのである。

ぼくが初めて乗ったバイクは、ロードパルである。一般的に見ると、二十四才で自動車の免許を採ったのだから、少し遅い方だと思う。ぼくの世代ならば、十六才で自動二輪の免許を採ったなら、あとで限定解除がついてきたらしい。だがその頃、バイクに関心がなかったのだ。自動車の免許の取得にはかなり悪戦苦闘した。ぼくの場合は、大変な思いをして手に入れたのである。自動車免許には、原付免許というオマケがついていた。それは五十CC以下の原付(原動機付自転車)なら乗っても良いということである。ぼくの住む湖西市から、会社のある東若林までは二十キロほどの道のりである。その距離を通うのに、電車とバスを乗り継いで通っていたのだが、時間もお金もかかるので、もっと良い考えはないものかと考えていたのである。営業の人の口車に乗せられて、半分は騙されたような感じで手に入れたオートバイがロードパルなのである。そのバイクには保険は付いていなかったし、部品も随分取り替えた。だが、何とか会社の往復はできたのである。現在のオートバイというかスクーターは、大きく見えるのだが、そのロードパルという乗り物はまさに「原動機付き自転車」という名前に忠実な形をしていた。ママチャリのフレームを太くして、タイヤを太く小さくしたような原形をしている。そこに、エンジンやタンクや様々な部品が付いているのだが、あまり外見に凝っているとも思えない。「どうにか走れば文句はないだろう」的デザインなのである。