ivataxiの日記

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jack

その時のぼくは十五才で、中学から高校へ移行するほんの少しの踊り場みたいなひとときを、ひなたぼっこをするみたに過ごしていたのだった。ぼくは大阪の団地の上の階に住んでいたカッちゃんと、能登半島へ旅行することになった。甲子園でコーラ売りのバイトをしたお金で行ったのだが、計画はすべてカッちゃんが立ててくれた。カッちゃんは早熟で行動的だから、未熟で受け身のぼくは理想の道ずれといえたのだろう。小倉圭の歌で、題名はわからないのだが「この汽車は、機関士がいない、終着駅まで止まらない」みたいな歌を口ずさんだりしながら、夜汽車で能登半島をめざした。かなりの距離を歩いた。お金の都合と、カッちゃんの旅に対するポリシーから、そういうことになったのだ。ゆっくりとしか変わらない景色だったが、少しずつ着実に海岸線をなめるみたいにながめながら歩いた。映画みたいに、トラックが止まって

「ヘイ、ボーイ。乗って行くかい」

なんていうことにはならなかった。宿泊は全部ユースホステルだ。最後の宿泊が金沢ユースホステルであった。ユースホステルというのは宿泊料金が安く、規律が厳しい。例えば「飲酒・喫煙が禁止」とか「毛布は自分でたたむ」とかである。だから利用者は学生がほとんどであった。中学の頃から良くユースホステルを利用していたので、ぼくらはそういう面では戸惑うことはなかった。ユースホステルにはどうした訳かコミュニケーションゲームと卓球がつきもので、金沢ユースホステルも例外ではなかった。ゲームの時はおすまししていても、卓球ではみんな本気になって本性がさらけだされてしまう。それでも「この人と話してみたい」という人が何人か残る。エイコさんとジャックという、春休み明けから短大に入学予定の埼玉の二人連れの女性たちが、まさにそういう感じの人たちだった。さっぱりとしていて、男性に媚びることのない清潔な人たちで、長い旅の記憶の中でも特に良い感じのする人たちだと思えた。金沢ユースホステルを出て、金沢の街で偶然この二人と再会することになった。土産物を見たり、少し歩いただけだった。休むために喫茶店に入った。信じられないかも知れないと思うのだけど、大阪のぼくの家では、喫茶店は禁止であった。

「あんなとこ行ったら不良になるんや」

というのが理由だった。確かに、ぼくは勉強はしなかったが、クラブ活動は結構力を入れていた。そして、不良仲間とはつき合うものの不良にはなれなかった。両面あるものごとの片面しか知らないような中学時代であった。ともかくその時は、珍しく喫茶店というものに入ったぼくなのであった。エイコさんもジャックもカッちゃんも喫茶店には良く入るらしく、何も感じてはいないみたいだったから、居心地の悪さを覚えていたのは、多分ぼくだけだったのだろう。

「ジャックなんて男の子みたいでしょ。英語の教科書の『ジャック アンド ベティー』のジャックなのよ」

と笑っていう。彼女たちは埼玉の女子校の仲間なので、女二人で良く旅行をするみたいだった。もう一人のエイコさんは名前そのままのようだった。そういえば、カッちゃんもぼくも特にアダナはなかった。エイコさんは背が高く、ジャックは背が低い。カッちゃんは背が高く、ぼくは低かったから何となくぼくはジャックと歩くほうが居心地が良かった。カッちゃんの方が、話もうまく、顔も男らしく、少し不良っぽい感じがこの二人の女の子たちには受けが良かった。オクテなぼくはいつも彼の影に隠れている感じだった。一緒にいたのは、わずか一時間程だった。お互いの住所を交換し合い、それぞれの旅行の終盤を楽しむことにして別れた。

春休みは終わり、カッちゃんもぼくも同じ高校に進学した。カッちゃんは油絵で認められ、学校の階段に作品が飾られたりした。成績も良かった彼が中退することになったのは、再婚した父親と新しい母親と後から生まれた義理の弟のことなどの家庭の問題からだったのだと思う。もう一人いる彼の実の弟を残して彼は家を出た。それはきっと、突発的なできごとだったのだろう。

ぼくが二年の浪人の末に、神奈川の大学に通い始めた頃に、カッちゃんから連絡があり、一度だけ再会したことがあった。

「食うことが困ったから、住み込みでレストランとかを点々としとったんや。今は、店をまかされている。そやけど、経営者のママのヒモみたいな感じやから、いうこと聞かんとおられへんのや」

という。当時は高くて普通の大学生はできなかった「インベーダーゲーム」を飽きるまでやらせてくれた。

「残して来た弟のことだけが心配なんや。あいつ、前に見た時は、団地の裏の土手で一人で土をいじって虫と遊んどった。あれ見たら、悲しかったわ」

と、男らしい眉と目を濡らしていた。その日以来、カッちゃんとは会うこともないし、連絡もない。でも、中学の同窓会名簿には、どこかの団地の住所になっていて、恐らく家庭も持っているようだった。そこに手紙を出してみたが返事はなかった。

高校入学の前に金沢ユースホステルで知り合ったジャックとは、その後も文通が続いていた。関東地方へ進学したかった理由の一つは、彼女の近くで生活したいと考えたからということもあった。大学一年の時は参宮橋に住んでいたから、新宿はとても近かった。珍しく

「二人で会いましょう」

という手紙をもらい、浮き浮きしてぼくは出かけた。貧しいながらも、それなりにきっとお洒落をして行ったように思う。当時の定番的待ち合わせ場所である「ルミネの前」で会うことになった。少し待った。彼女は、すでに社会人だったから、服装がぼくとはチグハグに感じて恥ずかしかった。

「今日は何でも私が奢るから」

というので、何を食べたかは忘れたが、その日は奢ってもらった。そして別れ際に

「今度、結婚するの。会社の年上の人で良い人なの」

と、突然のカウンターパンチをくらわされてしまった。ぼくは、うつむいて言葉を失った。

「ごめんね」

それが最後に聞いた言葉だった。人込みに消えて見分けがつかなくなるまで、その後ろ姿を見送った。関東に住む理由の一つが突然消滅してしまった。

そしてぼくは、そのあとそれなりの人生を営んで来た。名前の変わったジャックからの年賀状は、今もぼくの楽しみの一つだけれど、お互いの人生に深く足を踏み入れようとは決して思わない。とても柔らかくて傷付き易い心の部分なので、そっとしておきたいと思うのであった。