ivataxiの日記

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ダブルクラッチ

小学生の頃、父の職業をたずねられると、サラリーマンとか会社員と答えていた。周りの

子どもたちの父親の中には、取締役や社長などもいたものだから、少しでも耳に心地良い

表現を子どもなりに考えて、そんな答え方をしていたのだと思う。だが、実際はタクシー

の運転手だった。確かに、サラリーをもらい会社にも勤めていたのだから、あながち嘘と

もいえないだろう。だけどやっぱり父の職業を運転手とはいい出せないでいた。何もいわ

なくても、いつかは周囲は知られるのだが、子どもの頃の父親の職業に対するコンプレッ

クスが、大人になって行く過程において、いろんな形で歪んで作用するものらしい。ぼく

の職業観としては、はじめは中学を卒業したら。漫画家に弟子入りするつもりでいたのだ

が、両親も先生も「とにかく高校だけは卒業しておきなさい」という。高校に入ると、急

に大学へ行きたくなった。当時流行っていたデザイナーというものをやってみたくなった

。とにかく見た目がカッコ良く、耳に心地良い響きの職業にあこがれたのである。それも

、父親の職業に対す

るコンプレックスからの影響であったのだと思う。高校三年の秋の文化祭の終わる頃から

、国立の大学も受けてみたくなり、すでに推薦入学が決まっていた私立をキャンセルして

しまった。結局は、神奈川の専門学校に籍を置いた。そこも二年の途中で辞め、浪人生活

に入った。受験は惨敗で、国立も受からず、神奈川私立大学に通うことになった。「自分

の実力はこんなものだ」と思え壁に突き当たり、孤独と戦い自信を失っていた。ゆとりで

入ったつもりだったが、留年せずにやっと卒業した。高校時代から様々なアルバイトをし

ていたが、大学の四年は薬局でバイトをさせて頂いた。母は大阪の肢体不自由児童の施設

の補助員として働いていた。弟は馬鹿な兄を持ったお陰で、高校を出て国鉄に勤めた。父

は、ぼくの仕送りと学費の為に、痛む腹を押さえながら、タクシーの勤務の中でも過酷な

「夜専門の流し」という勤務をしていた。大学四年には、就職活動がある。当時も今と似

て、卒業しても仕事がなかった。アルバイト先のご主人は「行く所がなかったら、うちで

働かないか」と声を

かけてくれた。「せっかく大学で学んだことがあるのだから、卒業して最初に就職する所

は、能力が生かせる会社が良い」と、奥さんはご主人と相反する提案をしてくれた。東京

でデザイナーの仕事はあきらめていた。現在の妻の母が、地元浜松の印刷会社に入社試験

を受ける手配をしてくれた。合格したが「本当は、デザイナーをやりたい」と、申し出た

。関連会社の広告代理店を受け直して、面接だけで内定した。「君は、もう他の会社を受

けてはいけない」というのが、内定の条件だった。「浜松は、車の運転ができないと困る

」というのも、暗黙の条件だった。運転免許を取るという、お金の面は実家に頼めなかっ

た。当時、婚約前のぼくに、現在の妻の父がお金を貸してくれた。二人揃って神奈川の大

学から歩いて通える自動車教習所に通った。なぜそれまで運転免許を取らなかったかとい

えば、父の職業がタクシーの運転手だというコンプレックスからだと思う。「ぼくは将来

タクシーの運転手以外の職業につく」と、幼い頃に決めていたようにも思う。「どうした

ら、タクシーの運転

手にならなくて良いだろうか」と、考えたところ「自動車に興味を持たず、免許を取らな

いことだ」という結論に達したのだと思う。大阪も東京も、車なしでも住めた。だが、大

学は新宿から小田原に向かって一時間以上、むしろ小田原寄りだった。そこは自動車がな

いと不便で、車を持った同級生は王様のように輝いて見えた。だが、コンプレックスのお

陰で、内定の条件に運転免許を取るという話しが持ち出されるまで、どんなに不便でも我

慢できたのだ。教習所に来る以前に、どこかで乗って練習して来る人も多いのか、はたま

たぼくの能力の問題か、一緒に入った同級生たちはどんどん判子をもらって先に卒業して

しまった。だがぼくは、それまで車に対する関心を封印していたので、遅々として判子を

もらえない。中年女性の団体と同じくらいの進み具合だった。あちこちで、その団体と会

うので会話するまでになった。担当教官も「どうして空は青いのでしょう。雲はどこへ行

ってしまうのでしょう」などと、教習中に真顔で空を見ながらいうような人だった。「カ

ーブは、心で曲がっ

てください」と、少し粋なことも言った。カタツムリだって、いつの間にか遠くに行く。

ぼくらは、ノロノロだが、いつしか仮免という段階になっていた。冬休みに大阪に帰った

時、父に「」仮免の練習せなあかんから、隣に乗ってえな」と、頼んでみた。父は快く付

き合ってくれているように見えた。あんなに毛嫌いしていたのに、父のタクシー運転手と

いう職業が、この時ばかりは心強かった。もし教官が隣に乗ってくれたとしても、これほ

どの安心感はなかっただろう。父はただニコニコと隣に座っているだけかと思っていた。

良く見ると右手は、いつでもサイドブレーキを引けるようにしっかりと握っていた。実は

、内心ひやひやしていたのだろう。「お父ちゃんが乗っとったタクシーはなあ。プロパン

ガスで走っとったんやでぇ。ギヤかてハンドルの横についとってな、三速しかなかったで

。ベンチシートでギヤがハンドルの横に付いてると、運転手の横に二人乗せられんねん」

という。「クラッチかてなあ、シンクロがあれへんかったからなあ。回転数を合わせるよ

うに数を数えといて

からなあ。アクセルを一回ふかしといて、クラッチを二回踏むんや。ほんだらな、スッと

クラッチがつながんねん。これをダブルクラッチゆうねんで」と、自慢気にいいながら実

際にやって見せてくれた。その頃の父は、軽自動車のミニカ70からカローラに乗り換えて

いた。そのカローラはマニュアルであった。最高級のドライブテクニックを駆使するには

、少し物足りない車だったのかも知れない。「正一。運転がうまいっちゅうのは、どうい

うことかわかるか?」と、父が聞いた。「ハンドルさばきがうまくて、早く走れることか

なあ」と、ぼくは答えた。「あほやなあ。運転がうまいっちゅうことはなあ。道を知って

るっちゅうこっちゃ。いつどこから車が飛び出すから危ないとか知ってな、普通の知らん

町では早く走ったらあかんのや」と答えた。父は続けて「なんで、お父ちゃんの大切にし

てるカローラで、正一が仮免に乗ってもええかわかるか?」と聞く。「そんなん、ぼくが

運転うまいからやろ」と得意になってぼくが答える。「それがちゃうねんなあ。それはな

あ。正一がこ

千里ニュータウンの道を、よう知ってるからなんや」と、教習所でも教えてくれないこ

とを聞いた。仮免の運転の休憩に、父は何軒かの喫茶店で、ぼくにコーヒーをおごってく

れた。父はお金持ちではなかった。コーヒーを飲みながら話す父の姿は生き生きとしてい

て、とても楽しそうだったので「ぼくが払う」とは言えず、結局ご馳走になってしまうの

だ。無事に免許を取り、大学卒業後、内定していた浜松の広告代理店に就職したぼくは、

夏に大阪に帰った。父の車は、マニュアルのカローラから、オートマチックのコロナにな

っていた。帰りには父が新大阪までコロナで送ってくれた。「オートマはなあ。急ぐ時は

アクセルを一回思いっきり踏むんや。ほんだらな。ギヤが一段下がって、力が出るねんで

。これはキックダウンゆうねんけどな。あんまりやると燃費が悪うなるから、あんまりや

らへんけどな。今日は特別やねん」などと、オートマチックとマニュアルの違いのことも

教えてくれた。急いでいるというのに、急に父はスピードを落とした。「もうすぐ右側に

、箱型の機械がある

ねんけどな。あれによう捕まるんや」と、警察は決して教えてくれないようなことまで教

えてくれた。「今はコロナやけどな。クラウンとはいわへん。けど、いつかはマークⅡに

乗りたいんや。あれはええ車やでぇ」と、遠くを見るうっとりした目で父はいった。だが

結局、父はマークⅡに乗ることはなく、六十歳で亡くなったのだ。のちに困ることがあり

、ぼくは二種免許をとった。アルバイトを掛け持ちして半年かかった。タクシーに乗る前

に、二年間郵便局に勤め、今はタクシーの運転手をしている。免許をとるだけでも大変だ

った。免許をとった時に弟は「これでやっとお父ちゃんを越えられるなあ」といった。で

も、ぼくらを育て、生計を立てるため、ほぼ一生をタクシーの運転手という職業で通した

父の偉さに決して勝てるとは思えないのである。