ivataxiの日記

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ドライカレー

浜松の街も、今のように整備されていなかった頃だった。狭くて暗い雑然とした街路は人でにぎわい、街がクリスマスの飾りで彩られる頃にはいっそうカップルなどで華やいで見えた。ぼくを含め十人を少し超える団体が、そんなある日の更紗屋の店内の一角で、なぜだか突然思い立ってクリスマス・パーテイーを初めてしまった。ゲームが終わり、一段落した参加者の関心が食事に移る頃、突然「カタン」という硬い音が店内に響いた。それは食事の途中、何の前触れもなく立ち上がった拍子に、背の高い背もたれのある木の椅子を、男性が倒してしまった音だった。彼はその時、他の参加者や店内の別の人たちの目にさらされ、気まずくバツが悪そうに立っていた。端正で生真面目そうな顔立で背の高い彼は、既にそれだけでも十分店内の人目をひいていた。だが、この時、周囲の様子はそれとは少し違っていた。彼もそれを察したのか「別に何でも」と、気まずそうに誰にいうでもなく言い、椅子を起こした。そして、またしても食事を始めたのである。彼の聡明な額には大粒の汗がみるみるふくらみ、寒い日のお風呂場の窓の内側の水滴みたいにやがてくっついて流れ落ちていた。赤らんだ真剣な表情。充血してカッと見開き、一点を見つめたままの目。彼の男性的で太い眉は、十時十分の時計の針の形につり上がり、すらりと通った鼻筋の鼻腔はヒクヒク開いたり閉じたりを繰り返していた。呼吸は荒く、食べ物をほおばったままの口元は動きを止め、体をこわばらせていた。またしても「カタン」という音が店内に響き、彼は洗面所に走った。見ると、彼の席にはドライカレーが食べ残されていた。この店のマスターは、美味しいものを沢山食べた人にありがちな小太りで、一見すれば人の良さそうな人相なのだと思う。「彼はきっと、生まれつきニコヤカな人に違いない」と、ぼくは勝手に想像していた。だが思い起こすに、今日のマスターは何だか様子が違っていたようなのである。ドライカレーをテーブルに置いた時、さりげなく「からいですよ」と、誰でも知っていることを念を押すみたいに、一区切り言葉を呑んで微笑んだことを、ようやく思い出した。この時のマスターのニコヤカさの中には、卑屈さや翳りと言うものが微塵もなかった。その上、笑顔の形のままの目には、メラメラと燃えるような自信がみなぎっていた。もしかして、あの「マスターの自信にみなぎるニコヤカさ」の裏付けというのは、これだったのかも知れないという疑問が、ぼくの心の中にふつふつと渦巻き始めた頃、洗面所からさっきの男性が戻り、何事もなかったみたいに席に着いたのだ。そしてまた、やり残した仕事に向かう人のような思いつめた表情で、黙々とドライカレーの続きを食べ始めたのだ。「いや、それはぼくの考えすぎだろう」と、かぶりをふりつつ、ぼくはぼくなりに用心してドライカレーを食べることにした。考えてみると、ここでドライカレーを食べるのは初めてのことであった。ともかく一口ドライカレーを食べてみた。その辛さを一言で語りつくすのは容易ではない。というのは、一見ごく当たり前のドライカレー風味の弱々しい味付けに見せて油断させつつ、いつのまにか得体の知れなエスニックな辛さが舌に蓄積して浸透し、時限爆弾のようにある一定の線を超えると、セキを切ったように口の中で爆発し暴走するといったたぐいの辛さなのだ。またしても「カタン」と音がした。見ると、やはりさっきの彼が立っていた。この店のドライカレーの「辛さという痛み」が麻痺させ狂わせてしまったのは、舌の感覚だけではなかったようだった。この辛さの中には、その後の人生において、人柄や生き様さえも変えてしまう程の強さというものが秘められていたのかも知れないとさえ思える。更紗屋でドライカレーを注文する時には、マスターの笑顔の中の真意というものを、じっくり考えながら味わって欲しいのである。