ivataxiの日記

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ホオズキ

ホオヅキ

 

趣味で畑を作っているおじさんが、時々、野菜を持って来てくれる。土や肥料について聞くと「牛糞を安く譲ってもらい、しばらく置いておく」のだという。すぐに肥料にはならないらしい。「時期が来ると、その上に網をかける」という。牛糞の中にいた、カブトムシやクワガタが成虫になって飛び出す前に網をかけるのだとか。

「都会では珍しいので、デパートでは、クワガタやカブトムシを売っている」という。虫たちが飛び出したあと、発行した肥料ができるという。牛糞も腐葉土も、量販店で買うことができるのだが。

 

カブトムシのメスなら、コンクリートの階段や道などで裏返しに転がっているのを見たことがある。硬いコンクリートの上で裏返ると、足をバタつかせても、ひっかかる物がないのだ。丸くて硬いフォルクスワーゲンにも似たそのデザインが災いして、シーソーのようにいつまでも揺れるだけで、起き上がることができないのだ。

「ここ十年程、クワガタもカブトムシも見なくなった」と、神座に住む人に聞いた。道路の発達と車の増加、人が住むために山を切り拓いたためだろうか。「平成タヌキ合戦ポンポコ」という、スタジオ・ジブリのアニメを思い出した。

クマやイノシシが人里に出て来るというのも道理だろう。

 

かつて子ども会の子どもたちと「カブトムシ捕り」に、夏休みの早朝に行った。「カブトムシはどこで捕るのか」を知っている年配の男性に同行してもらった。そこは神座の林の中だった。結局は見つからなかった。だけどそれでも、子どもたちは十分興奮しているようだった。大人でも、樹木の多い林の中、柔らかい腐葉土を踏みしめて、早朝の空気を吸って歩いたことは良い体験だと思える。その頃の子ども会の子どもたちも、今では社会人や大学生である。あの「カブトムシ捕りの朝」のことなど、とっくに忘れてしまっているかも知れない。

 

ぼくは大阪で生まれたが、両親のふる里は四国の香川で、小さい頃の夏には、良く観音寺や琴平の親戚にあずけられた。琴平は「ことひら」と読むのだが、観光名所的には「こんぴら」と発音するようだ。子どもにとっては、観光地よりも「ただそこにある自然」の方が思い出に残っている。少し山に入ると「手押しポンプ」で、井戸水をくむ所があった。まず「呼び水」を入れる。しばらくは空しくポンプの取っ手を上下させるのだ。すると、手ごたえが重く変わる。鉄サビの混じった赤い水が出て、そのあとで透明な水に変わる。飲むと、鉄の味もするが、水道とは違う重さのある水の味がした。冷蔵庫がなくても、スイカやキュウリを小川や井戸に沈めて冷やすのだ。

 

きれいなダイダイ色で「ホウズキ」という実がある。外皮は破らず、中の種を残す。それを乾かすと、外皮の繊維の模様は古風なインテリア小物のようだ。

 

琴平の親戚の家は男ばかりの兄弟だった。そこのお母さんが、うどんを作るのを見ていたら、粉を強くこねる時、足で踏んでいた。そのことを兄弟にいっても誰も信じてはくれなかった。

「やっぱりお母ちゃんの手打ちうどんはうまい」と、喜んでいる。

 

ランジングシャツと半ズボンで、庭にスイカの種を飛ばす。娯楽などない所だ。

そこで「カブトムシの相撲」を見た。台に載せた二匹のカブトムシ。どちらかが落ちたら負けである。

カブトムシのオスの角は、頭の先に突き出していて、昆虫界の王者の風格がある。その角に糸をしばり、マッチ箱などを引っ張らせる。ただそれだけなのだが、今ではありえない程ゴージャスな遊びだと思える。

 

インターネットの普及や流通進化の加速により、世界が狭くなった。「ヘラクレス」という、世界のカブトムシ界の王者も、デパートで、お金を出せば買えるようだ。

「今というそういう時代って、これで良いのかなぁ?」と、少し思えるのだが。