ivataxiの日記

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みちや

みちや

 

遠州灘に消えたちあきは、過去の入出に現れ、そこの長に見込まれ運送業の開祖となった。仕事は栄え、万事うまく行くかに見えた。が、生まれるのは女ばかり、四人目であきらめた。事業が絶えるのは避けたいちあきは、次女に養子をもらった。その男は、仕事でちあきを落胆させなかった。事業は大きく足場も固まったものの、その夫婦にも子供がなく、他の姉妹たちも嫁いでいた。ちあきの血は絶えるとも、会社組織にし、はえぬきの社長にたくし、今も事業は拡大していた。

 

「ちあき」は、その経営者の一人息子として生まれた。開祖ちあきの何ちなんだのだ。ちあきは若くして波に消えたが「きよみ」という婚約者がいた。その日、最初に叫び声をあげた女性である。経営者の跡取り息子として甘やかされたちあきをいさめる者はなく、婚前のきよみが子を宿していると知る者も反対はしなかった。きよみは未婚の母の道を選んだ。ちあきの両親からの援助は快く受けた。それは、その子が彼女だけの子ではないと思ったからだった。父を知らないその子にも、幸せになる権利はある。ことの成り行きを知る者たちは、きよみが事務員として会社に残ることに反対派しなかった。生まれた男児は「みちや」と名づけられた。もし今も、みちやが成人していたならば、会社を継いだのだろうが、彼は数年前の富士山で行方知れずとなった。きよみの前ではいわないが、したいが見つからないことで、皆は納得していた。

 

二人にとって富士登山は初めてのことで、楽しみだった。富士宮口からバスで五合目まで行き、砂走りをおりるルートである。桐の杖に焼印を増やすのは、やりがいがある。その日は、八月初めの申し分のない快晴であった。きよみは、一人息子のみちやと、子沢山の兄一家と共に富士登山に来た。八合目の山小屋で仮眠をとり深夜に出発した。体力のある兄だけが高山病になり、山小屋の女主人から借りた金ダライを持ってどこかに走った。高山病は、酸素の薄さや気圧の低さから、貧血や吐き気などの症状が出る。富士山頂に、明け方を少し過ぎた頃つくと、へばって地べたに寝転ぶ人が多く見られた。お鉢めぐりをする人もいる。ポストに投函するのも良い。気圧のせいか、ビニール袋入りのパンが風船のように膨らんでいる。登頂までの時間がかかりすぎたので、帰途を急いだ。夕暮れ前には着きたかった。子どもたちも泣きながら八合目まではおりたのだが、大人も泣きたいくらいだ。ひとたび足を砂走りに踏み入れると、様子が変わった。それは砂といっても、江戸時代の富士山噴火後の火砕流だった。大きな軽石か、コーンフレークやペットフードの色と形なのだ。その砂は深く、延々と下に向かって伸びていた。足を踏み込むと真下ではなく、自然と斜めに山肌を伝うみたいに走り降りてしまうのが楽しかった。砂走りの一歩は、地上の六倍ほどの歩幅であり、月の重力が六分の一ほどというから、地上で月面のジャンプをしている気分である。大人も楽しめるのだから、子どもたちはもっとはしゃいでいる。大人たちを残して、どんどん先へと走り降りて行く。砂走りの風景は、すざまじく早く後ろに飛んだ。いつしか霧の中に入るが、それが山肌にかかる雲だと知ったのは後になってからのことだった。走りおりているのは数人のはずが、たくさんの人々と一緒にかけおりるような気配を、きよみは周囲に感じていた。江戸時代の噴火で、村が砂走りの下に埋まったと聞いた。時折、砂走りを走りおりる人々と、かつての村人たちが一緒に楽しそうにおりているのだろうか。霧が晴れ、雲を突き抜けると、きよみはみちやがいないことに思い当たった。確か、自分よりも先を走っていたが、他の子たちと一緒なので安心していたのだ。坂のゆるやかになったあたりで、改めてみちやの失踪が確認された。みちやは、あの雲の中の村人たちと残ったのだろうか。婚約者であり、みちやの父親でもあるちあきを波に消された。今度は、一人息子のみちやまで山に呑まれたきよみであった。兄一家も、その時のきよみを慰めることができないと知らされた。

 

きよみは、ちあき・みちやのことを片時も忘れなかった。歳月は彼女の若さを奪ったが、才知と美貌はかえって増していた。いいよる男がいてもおかしくはなかったが、ちあきの残像は心から消すことはできなかった。

 

ちあきが波に消えた海を、きよみとちあきの両親が共に見ていたとしても不思議はない。波か、サーファーに、在りし日のちあきの姿を探してみているのかも知れなかった。休日には良く、この三人を太陽の降り注ぐ遠州灘で見かけた。

「江戸装束の弥七」が、記憶を失って海から打ち上げられたのもそんな日だった。これも何かの縁なのか。

「記憶が戻るまでこの青年を、私たちが責任を持ってお預かりします」と、ちあきの両親が申し出た。

 

弥七の身体能力は抜群で、特に足が速かった。養父母の経営する会社に観光部門を作った彼は、新居の関所に執着と懐かしさを覚えた。新居の関所は唯一現存する関所としての観光的意味が高い。彼のこだわりは、それとは別な所にあったようだった。観光事業で「人力車」を始めたのは、走るのがすきだったからだ。マスコミに取り上げられ、人手には事欠かなかった。

 

弥七の苦手な事務を引き受けたのが、きよみである。彼女は、自分の仕事のかたわら、弥七の経理を見ていた。きよみがなぜ、見知らぬ・過去も知れない弥七を助けるのかはわからない。弥七の中に、海に消えた婚約者のちあきや、山に隠された息子のみちやの影を見ているのか。弥七は会計をきよみに助けられ、人力車も順調に運んだ。現場では若い力も育ち、弥七にも「自身のナゾに包まれた過去」に向き合うゆとりが出た頃だった。

 

ある日、弥七の養父母は「霊媒師を呼ぶ」といいだした。そこには、きよみも弥七も呼ばれていた。霊媒師は「仕事があるときだけ」というスタンスのようだ。名も知らぬこの霊媒師の男は、道で会っても気付かない顔である。陰陽師を連想していたが、それは違う。イタコとも違う風だ。

「初めにいう。信じずとも良い。誠か、ざれごとかは、そこもとの決めること」という。心なしか部屋に寒さが増す。凡人の姿をしたこの男は、ゆっくりと、いきを吐いては吸う。肩を落とした姿から、一旦魂が抜け小さく見える。再び肉体に戻ったのか「びくん」と体が震えた。肉体を離れた魂が時空を超え、他の魂と語らい戻るという流儀らしい。

「いくつかの時を超え、いくつかみたまと触れ、見聞きしたままを申す」と、神主風の語り口。

「ちあき殿のみたまは、今この世にはおりますまい」というと、ちあきの母がむせんだ。

「じゃが、死んだとも申せませんな。他の時代、違う所に在りて暮らし、その生をまとうされましたな」という。

「ご先祖に、ちあきという方はおられませんか?その方が、もう一つのちあき殿の半生にございました」という。会社の開祖の名前は「ちあき」といった。

「では、みちや殿のみたまに移ろう」と、なぜか弥七の方に居住まいを正した。人ごとに聞いていた弥七は面食らう。

「おぬしは、ちあき殿と同じ定めを負うであろう」と、首をかしげくぐもった小声でいう。

「どういうことですか、それは」と、聞きながらも、心の中で弥七はうなずいている。

「きよみ殿」きよみに向き直る。

「そなたも江戸で弥七殿と同じ地に住んだ前世がおありだ。肉体の契りこそ結ばぬ二人じゃが、互いの魂は認め合っておった。きよみ殿は、茶屋の娘、そして弥七殿は飛脚をしておった」という。弥七は、会社の飛脚のマークを見るとき、心が落ち着いた。

「江戸の大津波で一度は絶命したきよみ殿である茶屋の娘のみたまは、時の流れの中、この時代に流されて来てしまった弥七殿を追って、きよみ殿の肉体に転生されたのじゃ」という、きよみは喜び、そして驚いていた。

「それでみちやは、あの子は元気なのでしょうか?」きよみは、この怪しげな霊媒師のいうことを真に受け母の顔になっている。

「みちや殿の半生は、江戸の津波の前に現れた。そこでは飛脚の子として育てられ、やはり津波に呑まれたのじゃ」という。

「みちやは。あの子は、もう死んだのですね?」と、泣き崩れそうなきよみに。

「あわてるでない」霊媒師の超えは低く威厳を帯ている。

「みちや殿はな。ほれ、ここにおられるぞ。記憶を失っておった江戸では、飛脚夫婦に弥七と名づけられた、目の前のこのお方じゃ」というのだ。きよみも弥七も、互いに見合った。年の差は、親子程ともいえる。

「ソウル・メイトという言葉がある。互いに引き合う魂が、別な時代と場所に転生して、役割を買えて、関わり合って何度も生きなおす。転生後、また伴侶のなることもあるという関係のことじゃ」という。

「本当にそんなことがあるのでしょうか?」というのは、ちあきの父である。

「信じる信じないは、そこもとのことぞ。わしは、みたまの語るを伝えるのみ」霊媒師は魂が抜けるみたいに「ふうっ」と、ひと息に吐いた。しばしの沈黙のあと、霊媒師は元の風采のあがらない初老の男に戻った。肩で息をし、間をおいて。

「魂が抜けている間の記憶がありませんからな。どうでした?」と、何か言い訳をするみたいだった。出されたお茶を飲み干したものの、まんじゅうから目が離れない。まんじゅうには手をつけず、紙に包んで土産に持ち帰る。普段より厚い謝礼の封筒を、目の高さに確かめ細い目になる。

「では遠慮なく」と、無欲のつらで、音を殺してなまつばをのみこみ懐に謝礼を沈める。素早く家をあとにする足取りは、小鳥の軽さがある。霊媒師の去ったあとの場は、空気が転じていた。見えない魂の糸のもつれを、互いに確かめるように、虚空に目を泳がしていた。

 

あれ以来、それぞれの心のつかえが取れたのかも知れない。ちあきの両親は、別の時代でも、ちあきがそこで生をまっとうしたと知り、晴れやかさがあった。庭にパンくずをまき、やって来る小鳥たちに何か話して聞かせる年老いた妻の姿を、暖かい部屋の窓の外に見る初老の男性は、大きく居心地の良いソファーに身を沈ませている。

 

 

数百年、時をさかのぼった津波で舞阪と新居が引き裂かれる前の江戸時代のある日の舞阪の漁村である。海岸線は、現在よりも、さらに長い砂浜が海にせり出していた。

そこでは「地引網」という漁法があった。海岸線の奥行きの深さと長さを生かした漁法だ。広く網を海におろし、陸から多くの人でを頼んで網を引き上げるのだ。エイやサメなら驚かない村人たちも、無傷で網にかかった男の子には驚いた。異国の文字のある黒い筒を口に当てて息をしていた。未来の人が見れば、それが「登山用酸素ボンベ」であることがわかるだろう。その子は記憶を失ってはいたが、言葉は話せた。

漁村は子沢山で、一人ぐらい子どもが増えても、村人みんなで育てる心意気があった。子どものない飛脚夫婦が、その子の里親に名乗り出たとしてもおかしくはない。

「いいかい。今日からこの子は、うちの息子になるんだからね」と、鼻息の荒いおかみさんがいう。反対する者などない。その子は、その時代に居場所を得た。その子は、飛脚らしく「弥七」と名づけられる。新居の関所と浜松城下の伝令を忙しく往復する飛脚たち。弥七は、飛脚に向いた早い足だ。

 

「やっさん。ちょっとお使いいっとくれん」と、舞阪長屋のおっかさに用を頼まれる。近頃長屋では「やっさん」と、呼ばれる弥七である。新居まで弥七の足ならひとっ走りだ。

「あいよ」さっそく走った。弥七は、舞阪から新居まで一陣の風となって地続きをひた走る。新居の宿で用をすませる。ふところには、いつもの茶屋で一休みする駄賃があった。小さな茶屋だが、ここの娘が気がかりだ。二つ年下で「清美」という名しか知らぬ娘だ。目が合い、指が触れ、ひとことふたこと交わすだけで、弥七はなぜだか体の芯が熱くなるのだった。

 

何ということもない、のどかで平和な日々の情景が、いつまでも続きそうに、弥七には思えた。