ivataxiの日記

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池田マスオさん

 

池田 満寿夫

(いけだ ますお、1934年2月23日 - 1997年3月8日)は、画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督などの従来の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家。エロスの作家といわれるように、官能的な作風が多い。しかし、多岐にわたる活動、多才がゆえに“池田芸術”は高い知名度のわりに現在でもなかなか正当に評価されていない[1]。独創性を重視し、一つの表現手段にこだわらず、変身を繰り返したからである。

満州に生まれ、戦後長野県長野市で育つ。長野県長野高等学校卒業。高校在学中に絵画が入選、画家を志し上京。しかし、東京芸術大学の受験に3度失敗し大学進学を断念。このうち、1回は油絵科志望、2回は彫刻科だった。酒場で似顔絵を送りながら19歳で自由美術家協会展に入選。その後、画家、瑛九の勧めで色彩銅版画の作製に取り組む。この時期、平井蒼太主宰の真珠社から豆本のシリーズを刊行。1957年に東京国際版画ビエンナーレ展に入選。1960年には同展文部大臣賞を得て脚光を浴びた。

1961年には、上野・不忍画廊で初の個展を開く。1965年には、ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開き、話題となる。1966年、32歳のとき、棟方志功に次いで版画家としては最高権威のヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受賞。池田の名を国際的にも第一線の芸術家にした。版画のドライポイントでは、パウル・クレーやデ・クーニングに加え、雪舟水墨画の影響も受けていた。東京国際版画ビエンナーレ展などで、外国人審査員が評価したのは池田作品の中に“東洋の影”を見たからだ。

後に、水彩画や文学方向にも関心が傾く。1977年には『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞。この『エーゲ海に捧ぐ』は、絵画・歌・小説・映画とマルチな分野で池田自身の手によって現され、非常に話題となった(主演はのちにイタリアの国会議員にもなったチチョリーナことシュターッレル・イロナ。官能的な女性を描かせたら、当代一であったといわれる。制作した版画は1000点余り、陶芸作品は3000点を超えるとみられる。

1980年代には、テレビにも出演、一般大衆への知名度もアップし、文化人としても活躍したが、晩年、陶芸制作に没頭したことはあまり知られていない。1965年に初訪米したときから、米国陶芸界の第一人者であるピーター・ヴォーコスと交流。帰国後の1983年、49歳のとき、陶芸にのめり込んだ。亡くなる3年前に制作した般若心経シリーズの作品は池田の陶芸作品の中で最高傑作といわれる。般若心経という精神世界を平面ではなく、立体的に造形化した。地蔵や佛塔の作品などは、エロスの作家といわれた池田版画のイメージとは全然異なる。池田の陶芸作品はあえて割れるように制作したのが特徴だ。池田本人は“破壊の美学”と言っている。

その枠を知らない芸術への関心は他の追随を許さないものとなり、日本以外にも諸外国を駆け巡り、国際的に活躍し多忙な生活を送っていた。

1997年3月8日、静岡県熱海市の自宅で愛犬に抱きつかれて昏倒し、心不全にて急逝。享年63。この年の4月から多摩美術大学の教授に就任することが内定しており、後進の指導にも当たろうとしていた矢先の死だった。

19歳で入籍した女性が離婚に応じなかったため逝去まで戸籍上の妻はこの女性だけで、その後に同居した作家富岡多恵子やバイオリニスト佐藤陽子等は内縁の妻だった。

主な所蔵作品は、長野市池田満寿夫美術館、三重県菰野町のパラミタミュージアム熱海市池田満寿夫佐藤陽子 創作の家と池田満寿夫記念館でそれぞれ常設展示されている。京都市京都国立近代美術館佐藤陽子から寄贈された版画作品を所蔵する。広島市現代美術館、長野県信濃美術館は池田作品のコレクションを所有。

池田満寿夫のコラージュ・カット [編集]
池田が挿絵家としても一流だったことはいまでは忘れられている。カット類をまとめると1000点を超えるとみられる[2]。コラージュは新聞紙、雑誌、布などを組み合わせて貼り付ける手法だが、池田は版画制作を始める前にコラージュを手掛け、カット、版画などに活用するようになった[3]。1960年代~70年代、池田の作品はイラストレーターやグラフィック・デザイナーに刺激を与えた。

池田のカット、コラージュの全容の一部が分かるのが、池田著『コラージュ アフォリズム』(1986年、創樹社)である。300点強のカット、コラージュを収録。カットや版画作品を見ると、池田が作品制作にコラージュの手法を多用していることが分かる。コラージュは池田の制作活動の基本的な手法の一つとなっている。『コラージュ論』(1987年、白水社)を著している。

1961年以降、岩波書店発行の雑誌『世界』とPR誌『図書』、『朝日ジャーナル』、新聞・雑誌にカットを描いていたが、芥川賞受賞以降は出版社が遠慮して注文自体が少なくなった。

国立国会図書館新館ロビーに設置されたタピスリー・コラージュ「天の岩戸」(1986年)が著名だ。天女が空へ舞い上がるイメージで制作された西陣織を使った「天女乱舞A」(1987年、池田満寿夫美術館蔵)は親友の澁澤龍彦へのオマージュとして完成させた。

池田満寿夫の油彩とアクリル、水彩 [編集]
高校2年のとき、油彩「橋のある風景」(池田満寿夫美術館蔵)が第1回全日本学生油絵コンクールでアトリエ賞を受賞した。高校卒業後、画家を目指して上京したが、公募展に出品した油彩作品は世に認められなかった。版画を始めた後も、しばらくの間、油絵を制作。約20年間中断し、80年代以降は、アクリルでまず下絵・原画を描いてから版画制作に取り掛かる手法を用いたこともあった。雑誌『婦人公論』『月刊現代』の表紙を飾った女性像はアクリルだ。

池田の油彩は、中学、高校時代、20代以降で大きな振幅を示す。ユトリロヴラマンク、モディリアニ、佐伯祐三、松本俊介にあこがれた少年時代は灰色調だったが、その後、原色を使用し、さらに、ピカソ風、シュルレアリスム風、抽象 などへ作風が揺れ動いた[4]。アクリルの表紙画は具象性、写実性が強い。

亡くなる約半年前、池田は東京・新宿の画材店で、油絵の材料を大量に購入し、「これから油絵をしよう」と話していたという。死後、熱海市のアトリエのイーゼルには100号のアクリル作品3点が未完のまま残されていた。陶芸制作をやめ、念願の油彩に取り掛かろうと考えていたかもしれない。

一方、水彩には50年代に描かれたカンディンスキー風の小品や大作「美しさと哀しみと」(1965年、不忍画廊蔵)がある。『みづゑ』表紙や1977年、野性時代新人文学賞を受賞した角川書店発行の『エーゲ海に捧ぐ』の表紙の裸婦は水彩とフロッタージュで描かれている。

「美しさと哀しみと」は同年に制作された松竹映画「美しさと哀しみと」の中に登場する。原作はノーベル賞作家の川端康成で、 堕胎した女流画家とその弟子で画家への恋慕から画家の元恋人に近づく若い女性がからむストーリーを監督篠田正浩が映像化した。池田は主人公の女流画家を演じる八千草薫に代わり畳3畳分の絵を描いた。その数年前から池田と交際し、池田の銅版画を高く評価していた篠田[5]が「地獄と怪物」の画家といわれるオランダのボッシュの絵のようにと制作を依頼。上中下畳3畳分の絵のうち、真ん中部分のみ残り、後は行方不明だ。