ivataxiの日記

絵 文章 映画

池田マスオさん2

り、後は行方不明だ。
池田満寿夫の版画 [編集]
油絵が売れなかったため、22歳のとき、画家・瑛九の助言で、色彩銅版画を始めた。当時、日本では色彩銅版画を本格的に手掛ける作家が少なく、何とか絵で生活したいと思ったからだ。生活費を稼ぐため、エロティックな版画集も制作した。

銅版画のプレス機は当初は小学生が使うようなハガキの倍くらいのサイズしか刷れない機械を使用。公募展で賞をとるたびに賞金で大きなプレス機を入手し、版画作品もこれに伴ってサイズが大きくなっていった[6]。

版画の技法は、瑛九エッチング講習会の助手をして基本的なことを学んだが、自己流を通した。木版、銅版、シルクスクリーンリトグラフなどが現存する。その中で、ドライポイントによる銅版画の評価が高い。

池田が世に出るきっかけは、2人の外国人に銅版画のドライポイントを認められたからだ。第2回東京国際版画ビエンナーレ展と第3回展で、それぞれ国際審査員のドイツ人美術評論家・ヴィル・グローマンとニューヨーク近代美術館版画部長・ウィリアム・リーバーマンに評価され、入賞した。銅版に鋭い刃で傷を付ける、池田のドライポイントの線描は、パウル・クレーやデ・クーニング、ヴォルスの線に似ているが、雪舟水墨画『秋冬景山水図』の線にも影響を受けている[7]。日本人審査員は評価しなかったが、グローマンは「ここには東洋がある。日本の能面に通じる簡潔な美がある」と“東洋の影”を指摘して絶賛した。このドライポイントを主軸にした版画がヴェネツィアビエンナーレ展版画部門で評価されたのである。

雪舟水墨画の影響がうかがえる作品としては、第2回パリ青年ビエンナーレ展版画部門優秀賞を受賞した「大きな女」やドイツの古雑誌を使ったコラージュ「ムーン・フェイス」などが挙げられる[8]。

なお、エロティックな作品のモデルは生身の女性ではない。裸体モデルを使ったことはほとんどなく、ファッション雑誌やポルノ雑誌を利用して、イマジネーションを膨らませた[9]。雑誌の表紙画の女性も特定のモデルはいない。

版画の代表作は、銅版画やリトグラフなど内外での受賞作品がまず挙げられる。池田自身が代表作125点を自選した『池田満寿夫25年の歩み』(1981年、アートよみうり)も参考になる。

第2回東京国際版画ビエンナーレ展文部大臣賞の「女・動物たち」「女の肖像」「女」
第2回パリ青年ビエンナーレ展版画部門優秀賞の「月の祭」「大きな女」「女王」
第3回東京国際版画ビエンナーレ東京都知事賞の「動物の婚礼」「夢の鳥」「花嫁の領地」
第4回東京国際版画ビエンナーレ展国立近代美術館賞の「夏1」「私は何も食べたくない」「化粧する女」
第1回クラクフ国際版画ビエンナーレ展入賞の「楽園に死す」「姉妹たち」「天使のいる風景」
ヴェネツィアビエンナーレ展版画部門国際大賞の「動物の婚礼」「庭を横切る昆虫」「金曜日は雨」「戸口へ急ぐ貴婦人たち」「天使の靴」「タエコの朝食」「サイズはサイズ」「化粧する女」「夏1」「夏2」「聖なる手1」「青い衣裳」「海のスカート」「ロマンチックな風景」「楽園に死す」「姉妹たち」「花園にて」「天使のいる風景」「ヴォーグから来た女」「夏の夢」「シンデレラの広告」「バラはバラ」「Spring and Springs」「青い椅子」「愛の瞬間」「Something1」「Something2」「ある種の関係」。
大賞受賞作28点のうち、「バラはバラ」など10点は自分のアトリエではなく、旅先のニューヨークのホテルなどで制作した。1965年、ニューヨーク近代美術館での個展のため、観光気分で渡米した際、池田はヴェネツィアビエンナーレ展の日本代表作家に選ばれた。しかし、旧作とともに、新作10点の出品を求められた池田は困惑した。池田は腐食に頼らない、ドライポイントとルーレットで急きょ制作を進め、現地の工房を借りて刷り上げた[10]。旅先での不慣れな制作環境の中、チャンスを見事に生かした。

米国と日本を拠点とした制作活動では、メゾチント技法を多用する詩的な主題へ向かったが、突然に奔放なエロティシズムを打ち出し、転機となった。帰国後にドライポイントを再び手掛ける。また宗達琳派の空間構成を意識した大作リトグラフやコンピュータ・グラフィックスの原画をもとにした版画を制作した[11]。

第8回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展入賞の「靴の裏側」「ブダペストからの自画像」「マリリンの半分」
第3回クラクフ国際版画ビエンナーレ展入賞の「夢」
第17回アメリカ国内版画展入賞の「ファッション」


池田満寿夫の書 [編集]
池田の書は全くの我流である。1964年には、読売新聞に連載された小説家、子母沢寛の自伝的な読み物のカットに加えて題字も引き受けていた。なぜ、題字を書いたかは不明だが、1本の線を細く、また太く一気に書くこと自体、絵を描くのと同じだと考えていたようだ[12]。白石かずこの詩集本の題字なども担当している。

池田は若いときからこの我流の書に自信を持っていた。晩年になると、陶芸作品の箱書きとともに、頼まれて書を多く書き始めた。失敗ができない一発勝負的な書の面白み、紙に墨が染みこんでいく面白さにはまったのだろう。

書と美術の関係について池田は『芸術家になる法 池田満寿夫対談金田石城』(1997年、現代書林)の中で、「日本が世界に影響を与えたのは浮世絵と書の二つ。書は世界美術に対して影響を与えている。非対象主義は全部書から来ている。20世紀の世界美術に与えた書の影響力は本当に凄い。ミロも書の影響を受けている。1本の線を均等に引くのが西欧の伝統、太くしたり細くしたりするのは書の影響」としている。

池田満寿夫の文学 [編集]
池田の文学面での才能は芥川賞を受賞した小説『エーゲ海に捧ぐ』で知られるが、20代から詩やエッセイを発表、美術評論も手掛けるなどその文才は美術・文学関係者から注目を集めていた。詩人の田村隆一は、池田の文体はコラージュ的であると批評している[2]。

少年時代から文学に親しんだ池田は、無名時代には謄写版刷りの私家版詩集や詩画集を発行した。『美の王国の入口で 私のなかの世界美術』(1976年、芸術生活社)では美術評論家顔負けの独創的な美術論を展開。新聞・雑誌に多様なエッセイを発表している。森茉莉、加藤郁乎、澁澤龍彦吉行淳之介野坂昭如らの詩集、著作本の装丁もしている。

ベストセラーとなった小説『エーゲ海に捧ぐ』は42歳のとき、米国滞在中に雑誌『野生時代』編集長の誘いで生まれた。『朝日ジャーナル』連載のエッセイが好評だったためで、個展開催のため帰国した際、ホテルに5日間缶詰となって書き上げた[13]。このとき池田は実際にはエーゲ海を訪れたことはなかった。1976年、野生時代新人文学賞を受賞。翌年、芥川賞を受賞した。画家が受賞したのは初めてで、池田は“時代の寵児”になった。芥川賞の選考委員は井上靖遠藤周作大江健三郎瀧井孝作永井龍男中村光夫丹羽文雄安岡章太郎吉行淳之介だった。その評価をめぐり、3時間を超す異例の選考となった。吉行淳之介の推薦がきいたようだ。永井龍男は選考委員を辞退した。

このほかの小説は『ミルク色のオレンジ』(1976年)、『テーブルの下の婚礼』(1977年)などがある。著書は多数あり、版画家、画家の余技とはとても言い難い。

していたため、一種のタイアップのようになり、テーマソングだと勘違いされたようだ。

していたため、一種のタイアップのようになり、テーマソングだと勘違いされたようだ。
池田満寿夫の造形 [編集]
池田は絵画以外に立体の仕事も精力的に手掛けている。なかでも晩年の陶芸作品、般若心経シリーズの作品群については版画を超えるとの評価をする人が多い。なお、これら陶芸作品について、オブジェや陶彫だとする人もいるが、大きく「陶」として位置付けたい。

中学時代の池田は平安時代の仏像彫刻と考古学に熱中。古紙屋から戦前の教科書を探し出し、仏像や寺院の写真をスクラップするほどだった[15]。池田は東京藝術大学を3回受験したが、うち2回は彫刻科だった。版画家として活動しているときでも、立体の仕事をしたい、とずっと思い続け、彫刻のためのデッサンやオブジェのイメージを密かに育てていた[16]。陶芸より彫刻、テラコッタの方に関心の重点を置いていたようだ。

池田が49歳のとき、陶芸を始めたのはその意味で偶然ではない。それ以前は彫刻の素材として何がいいのかを考えているうち、時間が過ぎていたのだ。米国滞在中には実際には使用しなかったが、アトリエに電気窯を備え付けている。そんな立体に興味を抱いている最中の1983年、誘われて静岡県南伊豆町の日本クラフトの岩殿寺窯でロクロを回した。

陶芸の世界に一気にはまった。感性の趣くままに芸術活動をする池田は、その表現の手段にこだわりをみせていない。版画でも様々な技法に挑戦し、年代によって作風が変化している。池田は自分のイメージを表現できる造形手段として陶芸が一番であると思った。池田は陶芸について「なんといってもインスピレーションと成り行きだけでどんどん形を作っていけるシステムが私を興奮させた」(1992年8月24日付読売新聞夕刊)とその魅力を語っている。

陶芸を始めてから西洋美術史一辺倒の池田の芸術思考に変化が起きた。西欧の絵画と彫刻に目を向けていた池田は、日本の縄文土器弥生土器、楽茶碗、織部に改めて関心を抱き始めた。俵屋宗達尾形光琳の影響を受け、版画でも金色、銀色を使い出した[17]。

池田の陶の制作方法は、当初は若手陶芸家をアシスタントに雇ってロクロで壺や徳利、皿などを成形するよう指示。これらをゆがめたり、つぶしたり、組み合わせたりして完成させた。窯はガス窯、電気窯を使用していた。

作風が大きく変化するのは、1993年、山梨県増穂町、増穂登り窯(太田治孝主宰)内に野焼き風の焼成が可能な薪窯の「満寿夫八方窯」を造ってからである。耐火度が強い土を使い、高さ1mクラスの大型作品は板状の粘土を使ってタタラ作りの技法や手びねりで制作した[18]。

代表作は「般若心経」シリーズ(パラミタミュージアム蔵)と「古代幻視」シリーズ(池田満寿夫記念館展示)の作品群である。池田満寿夫美術館(長野市松代町)の開館に合わせて制作した「土の迷宮」シリーズの作品群や富士山の様々な景色を描いた陶板画もある。

池田の陶の作品群の中で最高傑作に数えられる般若心経シリーズの作品は、2年がかりで般若心経を立体的に造形化した。高さ約1.5mもの大佛塔6体、佛塔24体、地蔵42体、心経碑34点、心経碗276点、心経陶板54点、佛画陶板30点、心経陶片828点と膨大な数だ。仏の顔はなぜかガンダーラ仏に似ており、エロスの作家といわれた池田の版画とは全然異なる宗教的な風情を醸し出す。佛画陶板はドライポイントの技法を援用して陶板表面が半乾きのとき、クギでひっかいて彫った。

このパラミタミュージアムは、ジャスコイオングループを事実上創業した岡田卓也の実姉、小嶋千鶴子が私費で建設した。池田の死後、『池田満寿夫の造形 般若心経』(1995年、同朋舎出版)を偶然見た小嶋が感動して「般若心経」シリーズの作品群を購入、展示施設を造った後、岡田文化財団に寄贈した。

池田は米国陶芸界の第一人者ピーター・ヴォーコスと30年近く交流を続けた。ヴォーコスは陶芸家兼彫刻家であり、絵画、コラージュ、版画にも手を染めるなど池田と同様、マルチアーティストだった。ロクロで壺などを引いて積み上げた後、ハンマーなどで作品を打ってゆがませる手法でも知られる。前衛的で、荒々しい、用の美を備えない作品は、日本の日本の陶芸界、特に若手陶芸作家に衝撃を与えた。池田はニューヨーク近代美術館での個展開催のため、1965年、富岡多恵子と初訪米した際、ヴォーコスに会い、その後も交際していたのだ。池田は陶芸を始める直前、ヴォーコスの作品を購入している。ヴォーコスとの出会いは池田の芸術活動に多大な影響を及ぼした[19]。

一方、彫刻については、陶の作品制作を始めた後にブロンズ制作を手掛けた。野外に置かれる巨大なモニュメントも制作した。長野市のブロンズ製『アポロンの水瓶』(1989年)、兵庫県西宮市、ブロンズ『静と動』『天馬』『ラ・メール』(1991年)などである。第2回フジサンケイ・ビエンナーレ現代国際彫刻展には“新人彫刻家”として応募、ブロンズ「犀」(1995年)(美ヶ原高原美術館)が優秀賞を受賞した。