ivataxiの日記

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後払いカード

後払いカード

 

プリペイドカードが流行っている。古くはテレフォンカード。500円位のが多くて、良く写真を印刷してプレゼントするのが流行った。ちょうどバブルの頃で、まだ携帯電話を持っている人が限定されていたし、町にはそこそこ公衆電話が残っていた頃だ。500円というのも中途半端な金額で、残高が少しの半端なカードを何枚も持っていて、次々と差し込んで使い切るという楽しみもあった。同じ頃に「ポケベル」という、文字ではなく数字が言葉代わりの送受信機能の携帯用子機も流行した。数字で「1919」ならば「行く行く」などのように、数字の言葉遊びができる人にはかなり限定的なロマンスの世界が構築できた。現在のプリペイドカードというと電車やバスに乗る時のタッチ式カードがある。チャージ(充電ではなく料金を先に充填しておく)された金額まではお金の替りにバスや電車に乗ることができるカードだ。タッチするだけだから支払いは瞬時で乗り遅れるという体験も少なくなっただろう。いや、その便利さを当て込んでやはり乗り遅れる人種もあるだろうが。このチャージ式プリペイドカードは常に「残高が足りないといけない」という強迫観念が伴う気がする。なのでいつ使うかわからないのに過分な残高を常に充填して置くことにもなる。それをしないとせっかく素早く乗り込もうという時に機械に「おい、足りなねぇよ」ピンポ~ンと止められる。間に合わない・恥ずかしい・もどかしい・どうしょうもないという体験が「ちょっと多目に入れて置こう」効果を生み出し、バス電車を運営する交通機関は潤い「良かった」という現状なのである。

テレフォンカードは現在、携帯及びスマホの浸透により影を潜めた感じもある。(そういえば電車の切符を買う「オレンジカード」も現在使うことができるが、これも間に合わない可能性があるので下火なのだろうか?個人的には好みなのだが)国民一人1台の携帯所有環境がほぼ整いつつある。開閉式のボタン押し込み入力小型画面デカ携帯は「ガラパゴス携帯」「ガラケイ」とさげすまれて久しい。今ではコンピューターの小型化された通信可能な「スマートフォン」「スマホ」が世間を席捲しているが、ほとんどがスマホ時代の今はどこがスマートなのか差別化する意味のスマートには記号程度の意味しか残っていない。むしろガラケイが「生きているシーラカンス携帯」とでも呼ぶべき希少価値なのかも知れない。みんなが歩きながら電話やメールをする時代となり公衆電話は少なくなり、携帯を所有しない人々は難民のような生活を強いられた。

一体どこから話が横道にそれたのだろうか?話をプリペイドカードに戻そう。

今後のことだが、ここからはぼく個人の見解だから、そこんとこよろしく。

「後払いカード」というのはどうだろう。先にカードで使って、どんどん借金がカードに貯まるのだ。カードを捨ててもクラウドというかどこかのIT関連会社が残高を管理しているから逃げることはできない。その頃にはとっくに国民番号管理社会になっているし、何しろ体にチップも埋め込まれているから、逃げられない。どんどんカードに貯まる借金の残高は後でバイトなどをした時に後払いでチャージする。すると残高が少し減る訳だ。「いつかは残高がプラスになる」という成功者みたいな発想はこのカードにはない。そういう人は過去からのプリペイドカードを使うはずだ。定職がない状態を設定されていて、そういう人が巷に溢れているからこんな「後払いカード」というものが生まれたのだ。いつ返すではないく「ツケといて」という困った酔っぱらいばかりのような世の中なのだ。残高を一気に回収しようとするとそんな困った酔っぱらいは店に来なくなるから店も催促しない。その分お店のママは「じゃあ、ボトル入れとくわね」と、新たな借金をやんわりと強要する・・そんな社会なのだ。良いこともある。万一間違って残高のたくさん残ったカードと重なったりすると、残高が移行するのだ。だから、むき出しに近い状態でプリペイドカードと後払いカードが接することがあると残高が相殺されることがあるのだ。まるでお金持ちと貧乏人の接触事故である。ツケの溜まった飲み屋にお金持ちの世間知らずのボンボン(大阪でいうお金持ちの御曹司のこと)を連れて行き「じゃあ、ここはぼくが持ちますよ」といわせて、一気に過去のツケも払わせる状態に似ている。そんなこととは知らないボンボンは金色のカードを差し出して「じゃあ、これで。・・ああ、支払いはパパの会社ですから。金額の上限設定は解除ですから安心してください」なんてセリフを吐きながらさわやかな笑顔で支払うのだ。「じゃあ、ママ、今日はこの人のオゴリということで・・・ボトルも入れといて、高い方ね」というとママも「わかってるわよ。本当にアンタはワルだけど、この方は良い人ね」と、厚化粧で精一杯の色気全開で笑うかも知れない。そんな状況と似ているが、実際には貧乏人とお金持ちは同じテーブルに着くことはないないからあくまでフィクションだ。