ivataxiの日記

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信長 今切れ

信長 今切れ
織田信長が今切れを訪れていたことを知らなかった。武田信玄亡きあと、勝頼が「高天神城(菊川)」攻略で、家康が「help me」と、援軍要請。浜名湖・今切れ(現在は橋がかかっているが、当時は船)で落城の知れせを受けて「なんだ、行ってもムダか?」と、引き返したそうだ。「これ使ってよ」と、家康に軍資金(金18000枚)を、二つの皮袋に入れて置いて行ったそうだ。

 

ラジオ さんまさんは 元気

 

ラジオ さんまさん 元気
ラジオで「さんまさんが元気だ」という話。ブラックデビルの役は「高田じゅんじさん」だったかも知れなかったが、体調を崩してさんまさんが有名に。御巣鷹山では飛行機に乗らず、命拾いしたとか。「いまる」は(生きてるだけで丸儲け)の略だとも。特に病気で役を失うこともある芸能界。元気というのは才能だろう。

 

弥助

弥助
ブラックパンサー」(マーベル/アベンジャーズシリーズ)の俳優さんが演じる「弥助」という映画を作っているそうだ。キリスト教徒の奴隷として、信長に会わせた黒人の話。体を黒く塗っていると怪しみ、上半身を裸にしたり、体を洗わせたという。でも、新しい物好きの信長は彼を「弥助」とよび、傍に置いたそうだ。本能寺のあとも、信長の息子を守ろうとした。明智光秀は「黒人は動物だから殺さなくとも良い」と、彼を解放したそうだ。また、キリスト教会に戻り、その後の消息はわからない。

 

山本勘助

 

わかる前に書いている
すっかりわかってから歴史のことなどを書くことは賢明だ。だが、わかる前に仮説も含め、少しずつ書くことにしている。なので、後に「あれは違うかも」ということもあって、あしからず。

 

甲陽軍鑑 市川文書 山本勘助
「歴史人」2017/11(no.83)。実在か架空の人物かわからない「山本勘助」。1557/6/23付け「猶可有山本管助口上候」という書き込みがある。「勘助」「管助」程度のあて字は、当時当たり前だという。これが「山本勘助」の実在を証明することとなったという。

 

オーバーオール

 

オーバーオール
大学の頃「オーバーオール」が欲しかった。デザイン科の多くの学生が着ていたのだ。一年生の夏休みにお金を使い切って、薬局のバイトと新聞配達を掛け持つ。それでようやく、オーバーオールを買えた。髪がずいぶん長くなっていたが、当時の学生はみんなそんな感じ。良く女の子と間違えられたが、オーバーオールは中性的な衣装だろう。今なら太った農夫のように見えるだろうが。最近の若い世代にもオーバーオールを見かけるようになった。現在、学生の仕送りは最低だという。お金はないけどファッションを楽しむ世代。やはり「古着屋」かな?ぼくたち世代の人が若い頃着ていたものが、古着屋さんで欲しくなるディスプレーされているのだろう。新しい感覚で着こなしている。それに、頭が小さく背が高く足なども長い世代。何を着ても、違う雰囲気。​

 

坂の多い浜松

 

浜松 あまりに坂が多い
浜松は坂が多い。名前を覚えているのは「ひくま坂」「地獄坂」「おかめ坂」「うさぎ坂」など、主だった物だけ。700は坂が存在するらしいが、全部名前は知らない。なんでそんなに多いのだろう?三方原大地は都田あたりから段々、遠州灘に向かって低くなだらかに下がっている。浜松駅付近の伝馬町・伊場付近に大地の終点があるようだ。標高の高い場所(蜆塚)に縄文時代の跡があり、16000年の時を経てゆるやかに100m程海抜が下がったようなのだ。プレートがもぐりこみ、盛り上がったり、火山で隆起したり、色んなことがあって三方原の頂点ができたのだろう。ゆっくり海岸線が下がる過程で、台地の表面はきれいに磨耗してなだらかになったのだろう。井伊の谷と三方原の中間で、ナウマンゾウの化石が発見されている。中国・ユーラシア大陸からちぎれた陸地が戻って、現在の日本の元にくっついた接点がそこにあるのだろう。で、なだらかな坂が浜松には多いのではないか?という個人的見解。​

 

FCA 白紙

 

FCAフィアット・クライスラー・オートモービル)は、ルノーとの50対50の合併案を白紙に戻したようだ。合併していたら、ニッサンもミツビシもどうなっていたのか?何しろ、ルノーはフランス政府がバックにあり、対等とはいえない状況を作り出すようなのだ。ゴーン氏が存続したならどうだったのか?武田信玄は個性的な武将を集めて、うまく軍師の才能を発揮した。大きくなった寄せ集め軍団。いきなりの信玄の病死以降、コントロールがきかなくなったようだ。勝頼から離反摺る者もあった。逆に有能な軍師を勝頼は深追いで潰す。大きくなりすぎた軍団を作り上げたリーダーが不在という点で、良く似ているのかも?​