ivataxiの日記

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ピカソ

パブロ・ピカソ

(Pablo Picasso(フルネームについては後述)1881年10月25日 - 1973年4月8日)はスペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家・彫刻家・芸術家。ジョルジュ・ブラック同様、キュビスム創始者のひとり。生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であるとギネスブックに記されている。

ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。主なものを以下に挙げる。

青の時代(1901年-1904年)
親友カサヘマスの自殺[2]にショックを受け、プロシア青(青色無機顔料)をベースとする暗青色を基調として、軽業師、アルルカン、売春婦、乞食、芸術家などを描いた。

バラ色の時代(1904年-1907年)
フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人などを描いた。

アフリカ彫刻の時代(1907年-1908年)
アフリカ彫刻の影響を強く受けた絵を描いた。この時期にキュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』(または『アビニヨンの女たち』)が生まれた。

セザンヌキュビズムの時代(1908年後半)
セザンヌの描き方をアフリカ彫刻のキュビズムで描いた。

分析的キュビスムの時代(1909年-1912年)
ブラックと二人で物体を分解する分析キュビスムを突きつめていった。

総合的キュビスムの時代(1912年-1918年)
コラージュ技法を発明した。

新古典主義の時代(1918年-1925年)
古典的かつ量感のある母子像を描いた。

シュルレアリスムの時代(1926年)
キャンバスの中を怪物のような絵が動き回る。『ダンス』『磔刑』などの名画が描かれた。

ゲルニカの時代(1937年)
ゲルニカ爆撃に怒ったピカソが、『ゲルニカ』のための習作『泣く女』などを描いた時代。

戦後の時代
子供のような絵を子供のように自由に描き、まるで絵を描くことが、ピカソに命を与えるかのように晩年までを過ごした時代。91歳でも絵を描いていた。(自画像)

生活 [編集]
ピカソは仕事をしているとき以外には、一人でいることができなかった。パリでは、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、アンドレ・ブルトンギヨーム・アポリネールガートルード・スタインらと頻繁に会った。

正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエだった。富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァという名前で知られるマルセル・アンベールと付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品の中に「私はエヴァを愛す」(J' AIME EVA)、「私の素敵な人」(MA JOLIE)などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなった。

1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナのオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョア趣味を教えた。ふたりのあいだには息子〈パウロ〉が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。

1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり、中止した。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘〈マイア〉が生まれた。

またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。

1944年、ピカソは若い画学生フランソワーズ・ジローと付き合い始めた。そしてクロードとパロマが生まれた。しかしフランソワーズはピカソの嗜虐趣味と浮気癖に耐えかね(註・彼女の主張による)、1953年に2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。

しかしピカソはすぐに次の愛人ジャクリーヌ・ロックを見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、これにはピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたといわれる。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが離婚すると、ピカソはすでにジャクリーヌと結婚していた。

このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言-私に何故と問い給うな-』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。